私説日本古代史(なぜ奈良は京都に比べて虐げられているのか)
北九州に生まれ育ち、大学は京都で社会人は東京、そして福岡にJターンして戻ってきて15年経過したという経歴を持っている筆者にとって、東京も関西も九州も等しく同じように見ることができるのが強みだと思っています。
さて、そんな中日本の古代史で謎が多い奈良の都の時代と京都平安京への遷都について、現在の私見を全開しておきます。自分用のメモで将来の加筆修正もありますが、まずはご覧ください。
だいたい、日本書紀という720年(養老4年)に成立した歴史書が、散逸されずに現在に至るまで朝廷(平安京)によって厳重に守られていたという事実自体が、この書が現在まで続く平安京の朝廷にとって都合がいい物語であったことを如実に示すものだと考えています。ありていに申し上げると、この書物は現在の朝廷にとって都合の良い、嘘ばっかりということになるわけです。
古代日本で最も有名な聖徳太子は、蘇我氏の最高権力者の蘇我入鹿と同一人物であり、645年、大王の地位にあった彼を殺して皇位を奪い取った事件を起こした中大兄皇子(30年後に天智天皇)によって、二人の人物に分けられ記載された可能性が高いです。645年に大化の改新が始まったとありますが、奈良の南の急峻にして住みにくい、多武峰(とうのみね)の談山神社(だんざんじんじゃ)あたりに立てこもったゲリラ部隊風情の連中に、大王を殺された事件の何が、大化の「改新」なのでしょうか。この中大兄皇子と、それをけしかけた中臣鎌足という2人が、日本の歴史上、特筆すべき、大悪人だったというわけです。
そして、中大兄皇子という名前にある通り、彼はいちおう2番目の皇位継承権のある皇子だったわけですが、その長兄に古人大兄皇子がいて、この人はさっくり奈良の吉野に行って死んだとありますが、そうではなくて、本当はあとで出てくる天武天皇のことであり、だからこそ、日本書紀には天武天皇を大海人皇子というてきとうな名前に仕立て上げて、年齢不詳、さらには前半生における事績も不詳という、ひどい扱いをしているわけです。ちなみに、古人大兄皇子の父は、聖徳太子=蘇我入鹿=中大兄皇子に殺された飛鳥の大王だったと筆者は見ています。
実際には、中大兄皇子=天智天皇にとって都合が良いことしか記載が許されないというのが、この現在の宮中も大切にしている、日本書紀という書物の本質です。天智天皇の後継者に過ぎず、別段正式に皇位を継いだわけでもない大友皇子を弘文天皇として、あたかも皇位に就いていたと擬態させたのも現在につづく、平安京朝廷であり、これは、天智天皇の直系を皇位にしたいという、朝廷側の意図によるものです。
さて、平安京朝廷を作り上げていく過程でもっともその利益にあずかったのが、新興豪族の藤原氏です。藤原氏にとっては、710年にできた平城京など、別に愛着はなかったわけです。
もともと、藤原氏は中臣鎌足という人が始祖だと言っていますが、この人謎が多すぎます。ズバリ、中大兄皇子が自身と一心同体と考え、滅びているのに救援の船団を出して完璧に負けちゃった643年白村江の戦いで救援しようとした、百済王の扶余豊璋(ふよほうしょう)が、白村江から逃げ帰ってきた姿が中臣鎌足なのでしょう。したがって渡来系です。
百済王なんだけど世を忍ぶ仮の姿の中臣鎌足は、その子の藤原不比等の時代になり、あらためて「藤原氏」という名で日本の新興豪族としての活動を開始します。一旦は天武天皇という、中大兄皇子の最大ライバルだった古人大兄皇子(実は蘇我入鹿の嫡男)が壬申の乱を経て天武天皇として皇位に就いてしまったけれども、そこは老獪な彼らのこと、彼に差し出したこちらも天智天皇の次女の鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ、のちの持統天皇)と結んで、まさに持統天皇と藤原不比等は二人三脚で皇位の乗っ取りと、天智系への大政奉還を推進するのです。次男と次女が、長男と長女を敵視する、そのような状況になり、鵜野讃良皇女の2つ上の姉の大田皇女は急死、さらにその息子の大津皇子も持統天皇によって殺されたと書いてあります。さすがに書きたくない事実ですが、日本書紀の筆者たちもこれは無理だったのでしょう。
その中で、蘇我氏や物部氏、大友氏、尾張氏といった日本古来の名族豪族の力を、701年大宝律令という土地台帳整備によってきれいさっぱり削ぎ落としてしまい、それから満を持して723年三世一身の法、743年墾田永年私財法という180度国策転換を経て、なぜかこれから開墾する土地はほぼすべて藤原氏に上納されるというシステムを作り上げてしまいました。最後に、必要無くなった天武系の天皇たちも捨て、天智系直系の光仁天皇を即位させ、さらに藤原氏=百済系の女を妻として産ませた桓武天皇を擁して、大和系連合豪族の本拠地であった奈良を捨て、北のど田舎である京都平安京への遷都を断行してフィニッシュです。この歴史の中で、本来称賛されるべき持統天皇についても、天武に肩入れしすぎたということで、てきとうにあしらっているフシがあります。
平安の覇王、桓武天皇。京都の平安神宮(ご祭神はもちろん桓武天皇)のそばに下宿をかまえてかつて学生のころ住んでいた、毎日毎日ひっきりなしに修学旅行生や旅行者を満載したバスがひっきりなしに行き交う平安神宮を見ながら多感な学生時代を過ごした筆者にしてみれば、ようやくいろいろな答え合わせができた気がします。ちなみにライトアップでも有名な清水寺は、桓武天皇の避暑地、というか別荘、別宅です。さすが、奈良の大豪族を尻目に、これでもかという大陸最新知識を動員しまくった、藤原氏とそれによって抱えられた天智系天皇の面目躍如といったところでしょう。
ここに、出雲の大王の国々とそれを支えた日本古来の大豪族の連合王国であった日本列島は、百済王の末裔が成り代わった藤原氏と、彼らによって支援を受けた、これまた百済とほぼ一心同体であった北部九州の九州王国との連合政権に完全に乗っ取られた、ということなのでしょう。ここに平安時代が始まります。
ですので、今の東京に遷都しましたが平安京の正しい後継者である今の宮中や朝廷は、奈良の都については驚くほど冷淡なのです。平城京があったことすら、本来はないものにしたいのだと思います。
天武天皇については、一見褒め称えながら、至るところでダメ出ししていますし、その妻として、皇后として、さらには天皇、加えて太上天皇として権勢を振るった、天智系再興にもっとも力を注いだ持統天皇に対しても、合わせてものすごく冷淡にし、天武天皇と持統天皇はことさら愛し合っていた、なんて話を潤色して盛り盛りに書きながら、本当の意図を隠蔽しているのです。
平城京から平安京への遷都というのは、これほど大きな古代史上の転換点でありながら、その理由については曖昧模糊としていてよくわかっていませんでした。最近はインターネットの発達により、いろいろな現場の情報が、いながらにして手に入るので、本当に助かっています。
それではまた。
以上