一見もっともな「正義」が一番厄介な件

「子供を産みたくても産めない人もいる」などと言い出す一見もっともな「正義」を振りかざすことの危険性について

おはようございます。

2019年(令和元年)6月の、「昔は良かった」という古今東西どの時代を振り返っても「近頃の若者は」レベルに人口に膾炙しているなんの根拠もない繰り言を発したくて仕方がない筆者からのブログ配信記事です。

最近、ドラえもんを見ていても、ジャイアンが殴らなくなりました。

お話以外では殴っているのかもしれませんが、明らかに、テレビのゴールデンタイムに流す番組シーンにおいて、ジャイアンに殴られたのび太の描写は激減しています。

そのうち、「きれいなジャイアン」しか出てこなくなるのではないかと思います。

さらに、名探偵コナンにおける殺人の被害者の血だまりが、黒やグレーといった「目立たない」描写になってきています。

このままでは、血の色は黒やグレーだと本気で思う子供達が増えてしまうのではないか、どこまでが現実的描写でどこからがアニメ上の演出なのか、わからなくなってくるのではないかと思います。

昭和の時代は、その意味では表現の自由が担保されていました。

かつて週刊少年誌にして、前人未到の600万部を売っていた少年ジャンプの漫画ラインナップを見ても、経絡秘孔を突かれて毎回雑魚悪役キャラが体を爆発させて死んでいく北斗の拳だの、新宿の街中で短銃振りかざして銃撃戦をかますいっつも下半身をおっ立てている卑猥なシティーハンターだの、富士山麓やら中国の秘境やらで壮絶殺し合いのデスマッチをやって血まみれになって死んでいく男塾だの、そんな「残虐」で「残酷」かつ「暴力的」で「卑猥」なるコンテンツばかりが並んでいたのです。

名作ドラゴンボールについても、最初のお話でいきなりブルマのパンツを脱がすところからの描写であり、怒り狂ったブルマは機関銃をぶっ放すのですが、それを受けた悟空が「いてーなー」という程度で収まるという、誠に牧歌的かつ「漫画的」世界が醸成されておりました。

お礼にパンツ見せろと迫るエロオヤジ(亀仙人)に対して、ブルマは「はいっ!」と見せるわけです(実際はパンツは脱がされていた)。

これを、世の当時の小学生(現在の筆者の世代)は、低学年から笑って読み漁っていたわけです。

文部省特選、ということで学校の放課後の体育館に小学生が集められて、映画版「はだしのゲン」を見せられた、というのが昭和の時代の小学生の「教育」ですが、こんなの令和の現代でやられたら、おそらく大問題でしょう。

ピカドンで目玉から溶けていく、風船の女の子の描写は、小学校の時の記憶から今の中年になっても筆者のアタマから抜けません。

そして、当時の世の大人たちは、仕事やそのほかに忙しく、正直子供達がそのようなコンテンツに塗(まみ)れていることすら知らずに親は親の忙しい仕事に没頭しておりました。

なぜかって、親のその親の世代は、バリバリの戦中派でして、実際に従軍してあのアメリカやイギリスや中華民国と、海や陸でガチの戦争をやっていたのです。

約80年前、択捉島単冠湾を無線封鎖で密かに出た日本の正規空母6隻を主力とする日本海軍主力部隊は、秘密裏にハワイオワフ島沖に到達、そこから零式艦上戦闘機を主体とする航空攻撃で、アメリカ海軍の戦艦およびハワイ基地を壊滅させる大打撃を与えました。

そんな長駆遠征を行い世界をあっと驚かす、そんな命がけの訓練を鹿児島湾でやって戦地に赴いた、そんな親の親の話を勉強の合間に聞きながら、小学生の時分の筆者は戦闘機や潜水艦、戦艦や航空母艦の絵を書いて学校の図画工作の作品に出したりしていたわけです。

しかるに、今世の中の常識は大きく変わりました。

「課長島耕作」という、一世を風靡したサラリーマン出世漫画も、今やセックススキャンダルとパワハラの象徴として、脇に追いやられてしまいました。

「現代」の価値観で、かつての文化や風俗を無条件に批判することは、とても疲れるわりに、無益なことだと思います。

大河ドラマでも、例えば妾さんがいた歴史上の人物について、ことさら一夫一妻性を「強要」した結果、よくわからないイクメン的筋書きになっているといった例は枚挙にいとまがありませんし、いわゆる大作歴史戦記物(アレクサンダーなど)においても、当時は当然であった戦地の男色といった習俗や文化については全く触れられておらず、触れたとしても描いたこと自体が批判の対象となってしまいます。

表現の自由というのが、他者の無批判な「批判の目」によって晒されることで、これほど萎縮している世の中はないと思います。

嫌なら自分が見なきゃいいだけなのですが、こうした批判をする人ほど、世の中の(自分の目で見た)不正を暴き立てることを生業にされているようです。

例えば、「子供を産みたくても産めない人もいる」などと言い出す一見もっともな「正義」を振りかざせば最後、この世界には、目が見えない人、耳が聞こえない人、足が不自由で歩けない人もいる中、人ならば当然に思って良い「映画を見たい」「音楽を聴こう」「散歩に行こう」という気持ちを表に出すことが全て「差別」であり「ひどいこと」に貶められてしまうことになるのです。

このように、「誰も傷つかない社会」などというものは幻想であり、傷つか「ない」ことを目指す世の中や考え方は狭く閉じているだけであり、どうして「あり方をより楽しむ社会」として捉えないのか非常に不思議なわけです。

産みたい人が生みたくなる社会や、結婚できてない人が結婚したいと思う社会、非正規雇用で働いている人が望めば正社員になりやすい社会、といった前向きなメッセージを発する方が、「〜ない」世界を目指すよりよほど楽しいと思うのです。

むしろ、このように、「○○出来ない人もいる!」と言えば言う人ほど、深層心理では差別に凝り固まっておりまして、要するに、そうした対象を自分の下に見ているということなのです。

そうではない人はわざわざ過剰に特別視することはしないものです。

自分は◯◯で良かった、ご先祖様と親に感謝、で十分ですし、否定否定に進んで◯◯できない人のことを考えろっていっても、◯◯できない方としては「考えて」くれてもありがた迷惑に過ぎないと思うのです。

筆者だって、イケメンじゃない人のことを考えろって、横で他人がイケメンに言われているのを見ても、まるで感動しません。

それと同じです。

あくまで与えられた事象を前向きにとらえる方が健全だろうし、精神衛生上も良く、要するに幸せだと思うのです。

今回は、「子供を産みたくても産めない人もいる」などと言い出す一見もっともな「正義」を振りかざすことの危険性について勝手ながら論じてみました。

「今日も元気だ!ご飯がうまい!」というのが病人に対する差別発言で問題になったら、もう一度同じような記事を書こうと思っているところですが、この世の中の風潮だとその2回目の記事は結構早く来るのではないかと内心予想しております筆者からの本日の記事は以上です。

(2019年6月4日 火曜日)

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