地方創生とか地方活性化という「総論」というものの空虚な姿について好きに書いてみたいと思います(2020/05/06)

▼2019年(令和元年)5月の筆者提供の地方創生、地方活性化が叫ばれることにおける厳しめの私見を述べるというブログ配信記事です。日本は本格的な人口減少の社会に入りまして、新時代「令和」は目立った戦争も内乱も紛争も病気(パンデミック)も大災害もないまま国の総人口が減っていくという、国民が経験したことのない長くて異質な社会に入っていきます。そして、これは日本全国津々浦々、田舎も都会も等しく立派に着実に「衰退」していくことと同義です。それなのに、限られた人的資源や時間やお金を、その日暮らしのその日消費のためだけの「イベント」のみに投下して自画自賛しているという、サスティナビリティ(持続可能性)の全くないイベント地獄で疲弊している地方(これは地域的な地方という意味で、いわゆる都会も田舎も含んだ言い方ですので、東京銀座だって一つの地方です)を見るにつけ、忸怩たる思いにかられるのです。

▼自治体や商工会議所、町内会や寄り合いなどにおいて、さまざまな活性化を目的とした会合や会議がなされるのは日本全国どこでも一緒です。しかしながら、こうした会議会合の場では、何をするかという「足し算」の議題ばかりであり、「収益性や効果測定などに鑑みて、減らすもしくは統合するもしくは廃止する」ことの議論はほとんどなされないのが実情です。そもそも総人口が「常時」減っていくingの社会に生きているということは、年率数パーセントの割合で、「やること」も減らさないことには、全く負担感は減らないのです。ヒトモノカネと言いますが、ここで大事なのは圧倒的に人手であるところのヒトです。ハコモノや国や自治体からの補助金が振舞われたところで、結局地元で何か事業を真剣に取り組むのは「ヒト」であり、こうした人材は簡単には育成されないし補えません。都会の他の地方から、街おこし隊といった有期期限の専門家を連れてきたところで、こうした人間は、地元の人材をモチベートする起爆剤にはなりこそすれ、彼らが地元に根付いて独自のことができるようになるまでにはかなり長い期間がかかります。

▼そうした非常に憂慮すべき状況であるにもかかわらず、地元で権力を持っている(または、持っていると自ら思い思われている)自治体や商店街などのトップ層は「活性化」という名目で、余計な事業を足すことばかり考えます。自分たちが数十年、地元に君臨した結果がこのペンペン草も生えない笑えない有様なのですから、自らの通知表であるこの地方の惨状を真摯に反省することから始めることが必要なのに、そこは少子高齢化といった国の総論のせいにして、過去自分たちがやり散らかしてきたことの整理統合削減廃止を打ち出すという総括の心、自省の思いがないわけです。であるからして、もう50代なのに地域や商店連合会では「若手」として、相変わらず周年行事やらのお守りをさせられることになります。メンバーは限られており、そしてそのメンバーも「持続的に」減少していくことが所与のものとなっているのに、それぞれの組織では、何かやれ、前と同じようなレベルでやれ、ということばかり決められ、現場で実際に動くメンバーが消耗するばかりとなります。

▼会社の経営者や株主と一緒で、やるからには、その結果を真摯に受け入れる度量が必要なのに、こうしたイベントごとの効果測定はなされず、そのまま検証は放置され、次のイベントに総出で振り向けられる、このような疲弊スパイラルに陥っているように思えてなりません。そもそも、閉鎖的でない組織や地方などありえません。情報の非対称性もそうですが、まずは自己防衛本能から始まるのが社会性を身につけた人間の性だからです。大事なのは、それやり続けて皆が食っていけるか、という「まともな」観点だと思います。教育も保育も福祉も介護も観光も、事業理念は大変立派です。しかし、あまりに理念を先行させると、儲けるのは悪だという「弊害」に染まってしまい、価値を提供し続けるという大切な「持続性」が担保されません。事業者が苦しんで提供し続ける教育事業や保育事業が、本当のサービス提供事業と言えるでしょうか。保育士の先生が、過重労働と低賃金で、結婚もできず自分の子供も持てない、というのでは、保育事業に携わる人々としては「恥」だと思わないといけない状況だと思うのです。小学校の教諭が、自分の子供の入学式や卒業式に出れないのは当然と「思う」ことの方がよほどおかしく異質であるということに、早く気づくべきです。

▼教育事業もそうです。「勉強」するやる気のない子供に対して、冷暖房完備の塾や予備校施設を整備してあげて、教材漬けにすることが「教育」なのでしょうか。まずは、勉強する「意味」を公教育の場を利用して、それぞれの子供たちに感得させた上で、必要な時間、最小限の「簡単な」教材から与え、「学習できるということのありがたさ」をわからせることのほうがはるかに重要ではないでしょうか。かの2019年時点の千円札の顔でもある野口英世先生は、幼い頃貧しくて教科書を買うことができなかったので、卒業生の家を巡って古い教科書をもらい、それをつなぎ合わせて教科書を作ったり、黒板で示される授業内容を全て目と頭で暗記して、家で再現して本にして自分の教科書を作った、といったエピソードがあるそうです。「してあげること」ばかりにフォーカスすると、際限なく人手とお金がかかります。お金は、モノの対価ではなく、所詮「してもらうこと」の対価なのです。ですので、してもらうことを作り出せば作り出すほど、お金が必要になるという、これが近代資本主義経済の偽らざる真理です。しかし、何事も、やりすぎはよくありません。地方創生についても、自治体や地域の長老たちも、意見ばかり言うのではなく、自ら手足を動かして積極的にまちに関わるか、もしくは黙って若者のやることを見守っていれば良いのです。

▼地方活性化にしても、企業の業績回復にしても、経営者や株主や重鎮たちが、最近の若者や従業員は我慢が足りないなどと言っていては百年たってもなしえないでしょう。従業員や地域の若手メンバーの「我慢」や「不当な待遇」を強いる、そのような、控えめに申し上げても頭の悪い組織トップのもとには、有為な若者ほど寄り付かなくなるのは理の当然だと思います。だったらお前が率先して我慢しろ、ということです。そんな地方に必要な業務を運んできてくれる人材ほど、より恵まれた機会を求めて、こんな考え方ばかりの地方から、別の都市なり街へと移動し、そしてそこで「活躍」していくわけです。まとめますと、地域活性化のためには余計な口を出さず思い切って実際に動いてくれる人に権限を移譲して、任せる、ことが大切ではないかということです。全国衰退都市ランキングでは、長年日本全国の地方公共団体の中でも首位グループを走り続けております、北九州市という西の地方出身者の筆者からのコメントは以上です。

(2019年5月7日 火曜日)

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