栗林忠道中将の普通

小学生への道徳修身の手紙

2023.06.29 木曜日
06:59 筆者 お姉ちゃんへ おはようございます。筆者です。今日は、わたしがいつも黙って座っていればいいのに掃除や片づけばっかり始めるのかということを話してみたいと思います。
07:08 筆者 栗林忠道中将。(くりばやしただみち)昭和20年3月、硫黄島の激闘で戦死。日本陸軍史上最高の軍人と筆者が評するお方です。日本軍2万人の硫黄島守備隊を率いて米軍の侵攻を実に一ヶ月半にもわたって食い止め、日本軍2万人の命と引換えに、それ以上の米軍損害を強いました(日本軍は2万人全滅も死傷者を含めると米軍損害は2.2万人。10倍以上の戦力を投じた米軍陸軍海兵隊は震撼し、本土侵攻ではなく沖縄への侵攻を決断、その後本土侵攻シミュレーションによると米軍損害100万人以上と算出され、これがあの最低の戦争犯罪である東京大空襲、広島長崎原爆投下に繋がります)。
07:13 筆者 敵であったアメリカ軍の公式記録より。アメリカ海兵隊公式戦史には、栗林忠道中将。アメリカ人が戦争で直面した最も手強い敵の一人。この50歳程度の侍は天皇によって指名され、絶賛され、豊富な戦闘経験と革新的な思考と鋼鉄の意思を持ち合わせていた。硫黄島の戦いは、この栗林とアメリカ軍との唯一の戦闘となったが、栗林はアメリカの駐在武官経験から将来の対戦相手である我々について多くを学んだ。そして、われわれにとって最悪だったのはアメリカ軍の硫黄島への侵攻を撃退するため、それまでの日本軍の試みの一切を排除し正しい目で評価することができたことであった。すなわち、英雄的な誇張を排除し、現実主義に徹し、タワラからテニアンに至る日本軍の失敗の象徴であった、一か八かのバンザイ突撃や水際防御戦法を全く評価しなかった。
07:16 筆者 日本の枯渇した艦隊や航空隊からの援助も全く期待できない海の孤島のこの2万人を最も恐ろしく武装するため、彼我の戦力が10倍ならば10人を倒すまで死ぬことを許さぬといい、縦深防御で硫黄島の地下に要塞と通路を張り巡らせ、地形を最大限に活かしてアメリカ軍を深く誘い込み、そして消耗を強いて士気を喪失させて作戦を放棄させるべく、消耗戦、神経戦、持久戦を行った。そしてそれはほとんど成功した。
07:18 筆者 栗林は陸軍小笠原兵団の指揮官であったが、海軍の協力を取り付け、さらに陸軍においては参謀長を含む18人の上級将校を更迭し、残った将校は栗林のかかる方針に全く従った。栗林は海軍や航空隊の支援をほぼ受けられない運命に置かれたにもかかわらず、極めて有能な野戦指揮官であることを証明した。
07:22 アメリカ軍太平洋艦隊司令官。チェスター・ニミッツの回顧。硫黄島防衛の総指揮官であった卓越した栗林忠道中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落の要塞に仕立て上げた。この目的を達成するため地形を最大限に利用し、地下要塞を張り巡らせ、迎え撃つ最大の準備をした。歴戦剛強をもって鳴る、わが海兵隊の指揮官司令官たちは、偵察写真に現れた栗林の1年にも及ぶ周到な準備を一見して、これはヤバいと舌を巻いた。
07:23 筆者 と、これだけでもスゴイのですが、ここから筆者がいいたいことは、この栗林中将が、わずかな帰省で自宅に帰ったときにやっていたのが、家の片付けやお勝手の修理とか、棚を作るとかそういうことばかりであったということ
07:24 筆者 世界のどこにいても、出征していても駐在武官でアメリカに居ても、家族に手紙を書いて、気兼ねのない話を続けていたこと
07:25 筆者 硫黄島においても、手紙を推奨して、残してきた家族にできるだけ検閲の入らないように表現を工夫して様子を書き送ったこと、です。硫黄島からの手紙、という話があり、それで2005年映画にもなっていますが、映画見るより本を読んだほうが良いと思いますので、差し上げます。
07:31 筆者 長野県の寒村に生まれた貧乏な師弟であった栗林は、国家が養ってくれるということで(優等な成績なら学費を出してくれる)、陸軍士官学校の次席(2位)で卒業して、語学力を買われてアメリカ駐在武官も長くつとめます。自動車にも乗って大陸を横断したそうです。そんな開明派のエリート最右翼を太平洋の孤島の最前線に送る、これが陸軍の意地の悪いところなのですが、栗林は繰り言一つ言わず、文句も言わず、任について亡くなるわけです。最後に帰省できたわずかな間も、心配する家族に微笑しながら黙々と棚を作ったり、隙間風が入ってこないように板を入れて補強したり、掃除をしたり整理整頓をしたり、そんなことばっかりやっていたそうです(遺族の言葉があります)。
07:32 筆者 •ここから少し引用です
そして。戦地硫黄島においては

同じ量の水を飲み・同じものを食い・苦楽を共にする
「米軍の情報分析官は上陸前に、硫黄島にひそんでいる日本兵は、最大1万3000人と見積もった。飲用に適した水がないため、それ以上は無理と判断したのだ。しかし、その予測は外れた。日本軍は、絶望的に乏しい水で2万を超える人間の生命をつなぐという離れ業を、どうしても演じなければならなかった。
とにかくこの島には水が足りない。そのことがつねに頭を離れなかった栗林は、水の浪費を厳しく戒めた。『この島では、水の一滴は血の一滴だ』と。妻の義井宛てにも、『川もなく井戸もないから全部雨水を貯めて使うので、水は極度に節約します』と書いています。」
「また陣地を見回る際、栗林はいつも徒歩だった。騎兵出身で乗馬の名手である栗林に馬での巡回をすすめる部下もいた。硫黄島には馬が3頭いたのである。しかし彼は一度も乗ることはなかった。馬を歩かせれば水をたくさん飲むから、というのがその理由だった。
丸腰で地下足袋をはき、杖をついて各部隊に現われる栗林の姿を記憶している将兵は多い。
そんなとき彼はいつも、水筒を1本、肩から掛けていた。当時、1日の水の配給は、ひとり当たり水筒1本と定められていた。それを自分も守っていたのである。
水だけではなく生活の他の面についても、栗林は上下で差をつけることをかたく禁じた。
将校も兵卒と同じものを食べろと言っているのである。
階級にかかわらず、すべての将兵が不便を分かち合い、苦楽をともにすべきである、と。
栗林は自分自身も兵士たちと同じものを食べると決め、それを実行した。」
「留守宅からは、配給のウイスキーや副食物などを送りたい、あるいは島と東京を往復する連絡将校に託したいという手紙が何度も来た。しかし、栗林はそのたびごとに、『自分は兵士たちより恵まれた立場なのですべて十分足りている』 『大事な輸送物資を載せる飛行機なのだから、手紙以外は何も託さないように』という意味のことを書き送っている。
恩賜の菓子が配られたときは、自分は手をつけず留守宅へ送った。夫人への手紙に、小さく『家だけで食べること』と書いているのがほほえましい。公平・厳格な統率を旨とした
栗林も、家庭人としてはごく普通の父であり夫だったのである。」
07:35 この、家庭人としてはごく普通の父であり夫であった、というのが個人人格の最高潮だと思っているのです。なので、かような、先人先輩の為さりようを知っているわたしとしては、暇があったら掃除しちゃうし整理整頓してしまう、お勝手は修理したいし風呂は洗いたいし玄関は整理したい、それは昭和の戦中も令和の今も変わらないだろうと思っているのです。長くなりましたが一旦ここで終わります。予は常に諸子の先頭に在り。
07:39 筆者 追伸(と次回の予告)日本陸軍史上最高は栗林忠道中将。では海軍最高は?という問いには、大和特攻の艦隊司令官伊藤整一中将、と申し上げておきます。伊藤は愛妻家でもあり、大和特攻に際し残される妻子に対し、親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきはこのうえもなき仕合せと衷心より感謝いたし候。いとしき最愛のちとせ殿、という遺書を残しました。では今日も頑張っていきましょう。栗林中将の普通、に近づくために。。

予は常に諸子の先頭に在り(栗林忠道中将の言葉)

おはようございますこの春長野に転勤になる人にわたしのご先祖さまの話をしました信州上田の武田家家臣から、主君滅亡後真田家に付き従い、大阪夏の陣で敗れ、さらに生き…