自身の傾向について
悪趣味な傾向
嫌いな人や憎んでいる人や組織、国家をあえて研究し分析することで熱を感じます。もちろん、それを誰かに伝えたり、こんな嫌な人がいたよとレポを上げるわけでなく、ただ心に秘めるのみです。確か漫画家の冨樫義博さんも漫画を描くために似たようなことをしているとインタビューで答えていたと思います。
わたしは偉そうなやつと偉くないのに偉いやつがどうしようもなく嫌いなんです。お、いい感じのくそ野郎だな~とアンビバレンツな感情で眺めていることがあります。そしてその人がやはり思い描いていた特徴や経歴を持っていることが判明するたび、自分の頭のなかに漠然と生まれた法則性への確信が高まることに快感を覚えるのかもしれません。「ああ、やっぱり今回も当たってしまったよワトソン君。」
膨大な数を記録していると割と特徴が収斂していくことに気づきます。職業、土地柄、容姿、普段読んでいる本(最近だとテレビ、漫画、ネットのサイト・フォロワなども)あたりがキーになりがちです。人生50年もやっているとかなり俯瞰したものの見方になってきます、と口では言ってるけれども実はわりとかなり小さい時からそういうことに気づいていて、それに従い本音で生きてきた気がします。
わたしが嫌いな人間の傾向について。具体的な要素を抽出することは出来ますがここで具体的に取り上げるのは控えます。しかし適当に総括的に申し上げるなら、「新しいものが好きで、そこにたまらなくパワーを感じ、その素晴らしいもので人類を埋め尽くせば我々は新しいステージに進めるのにそれを邪魔するやつがいる」みたいな思想を持つ者、そういうのに大きな嫌悪感を感じます。これに比べればそこいらでインスタとかでウェイウェイやってる連中など問題ではないです。彼らのなかにはしばしば自由とか権利、つながるとかいう言葉をよく使い、ものごとの例えがたとえようもなくデカくて膨張しており、正義とか他者の自由とか衡平といった言葉が嫌い(相対性を主張する)人が見られます。これを私は個人主義で公共精神が薄く権利の行使ばかり頭にあり、そしてそれが暮らしのなかで咎められる機会がない、さもしい卑しい奴らだと切って捨てておりますが、こうした風潮は現代的な文化と習慣の関係から大いにもてはやされているようです。
つぶさにに見ていくと個性とはなんだろう、という思いを馳せるようになります。まるで金太郎飴のように、みんながみんな同じ言葉を喋るようになっているように見えます。自由意志の所在や責任が曖昧に見えてきました。つながるとか共生(ともいき)とか、友愛とか、そういう自己と他者の輪郭がボケた姿の世界です。俺は俺で、俺なんだと思っている私なんかには気色悪くて仕方ないですね、はい。
こんな薄暗い癖があるのはたぶんあんまりいい友人や先生に恵まれなくて孤独だったからかもしれません。が、人生やり直したいとか思ったこともなく、ただ産み育ててくれた父母とご先祖様に感謝、子供たちにはそれぞれ自分の人生を責任持って生き抜いて欲しいと願うのみです。逆に好きなものについて熱弁するのは苦手です。好きなものは安心しちゃってそれ以上考えないからかもしれません。つまり、好きと嫌いが同居する、そのような人間関係や人間模様そのものが、たとえようもなく好きなのかもしれません。
おわり