歴史の教訓にしたい共和制ローマによるカルタゴ共和国の「殲滅」に経済立国日本の明日を重ね合わせた話をします(2020/02/04)

共和制ローマとカルタゴ共和国(期限前241年、両国の勢力が最も拮抗した時代)

おはようございます。

2020年2月はじめの、改めて令和2年の現在に、歴史の教訓を振り返ってみたいと考えて書いた記事です。

今からざっと2300年前、地中海世界において、自国軍を持たず、経済力のみで雄飛した古代地中海の覇者カルタゴ共和国という国が隆盛を極めておりました。

日本の歴史に換算しますと、なんと縄文時代から弥生時代にかけて、実に700年にもわたって、カルタゴ共和国は続いたのです。

そして、イタリア半島に勃興したもう一つの共和制国家、ローマとの長い戦いにより、その勢力を削がれ、そして完全に主従逆転してローマの勢力圏に入りながらも、その長きにわたって鍛えた経済交易力を逆にますます恐れたローマにより、最終的に地上から殲滅させられたという、今の加工貿易立国でもある日本に生きる我々に大きな教訓を残してくれる、そのような歴史題材なのです。

世界をまたにかけた巨大貿易国家カルタゴ

古代地中海、北アフリカの小さな岬に、ローマを軽くしのぐ巨大な貿易交易国家がありました。

国民軍を持たず、貿易交易経済力のみで地中海を支配していたこの経済帝国を、軍事大国ローマは、史上まれに見る無慈悲さ残酷さで撃滅したのです。

平和な国カルタゴの首都は、町はおろか草木一本も残さず消え去り、生き残った5万人の男女は1人残らず奴隷に売られ、そして土地には塩が撒かれ、この地に再び人々が入植するのは、かのカエサルが植民地再興を命ずる、実にここから150年後となるのです。

経済立国として、どの国よりも強い経済を持ち、貿易ルートを抑え、顧客を開拓しネットワークを持ち、それ故に当時の地中海世界最強の傭兵部隊を組織することができ、ハンニバルのような有能すぎる軍事専門家、司令官と盛況な傭兵軍を雇うことができた国、カルタゴ。

今日、我々はそのカルタゴの歴史を見て、どう考えれば良いのでしょうか。

経済貿易立国の弱さを嘆いて、国民皆兵の必要性を改めて説くことなのでしょうか。

敵は外部より内部にいる、と喝破したかのハンニバル将軍の故事に倣って、国内の世論の統一を図るべきなのでしょうか。

軍事力の必要性を、傭兵や同盟国軍隊にだけ頼るというのは愚かしいと、平和をカネで買うのは難しいと悟ることなのでしょうか。

しかしながら、ことは単純ではないと思います。

今のところ、筆者にはわかりません。

しかしながら、少なくともここに丁寧にカルタゴの700年の歩みを記載すれば、実は人間というものの本性は、何千年経ってもほとんど変わっていないのではないかと思えるのです。

ここに気づくことができた上で、その上でさらに前向きに生きることができるかどうかが、歴史を学ぶ全ての者に突きつけられていると個人的には思っています。

歴史の教訓とは、「今」の価値観に過去を引き直して、ああすれば良かった、こうすれば良かった、と「後講釈」を垂れることではありません。

その時代における価値観や環境や背景は、現代とは全く違うものであるということを虚心に感得して、その上で事実をしっかりと見つめて、まずは起こった事象を理解することが大切です。

カルタゴも、独自の軍事力を持たなかったから滅ぼされた、と簡単に結論づけるのではなく、実は独自の軍隊を持たないという世界戦略を用いて、軍事大国に対してしたたかに「商売上の利得」を与えつづけることにより、擦り寄り、利用しがいがある存在として自らをカネのなる木として売り込み続けた、そんな700年間だったのかもしれないのです。

つまり、中途半端な自前の軍隊などもって物理的な領土的野心を露わにしたならば、ローマ台頭のはるか以前に周囲の北アフリカの軍事大国により、カルタゴは地上から消えていたのかもしれないのです。

ローマと戦火を交えたのは、かの国ローマの方も、実は共和政体、という似た統治組織を持っており、カルタゴからしては、権力の集中している王国といった王様を籠絡しておけば良い、という単純な計略が効かなかった、ということもありそうです。

つまり、元老院という中二病の集まりの如く、男のおっさんばっかりの、変な議論ばっかり一日中やっている、無駄な議会の集まりがあり、国家としての意思決定が演説やその場の雰囲気によってころころ変わる、そのような、いわばめんどくさい政治体制を持つ、比較的ぽっと出の、若い国家が共和制ローマだったのです。

先輩格で、さらに都会的に洗練されていたカルタゴとしては、国民軍のような組織を持つイタリア半島中部のローマとかいう田舎っぺ大将は、最初馬鹿にしていたはずでしたが、ローマは、田舎者特有の生真面目さで、ローマ市民の義務である30年の兵役のそのほとんどを、「軍事用道路建設」に捧げ、黙々と道路網を作り上げ、そしていつしか自分の建設した高速道路を高速で移動する軍事力とともに、交易経済力も急速につけてきたのです。

そうして、カルタゴとローマは激突します。

第一次ポエニ戦争、第二次ポエニ戦争を経て、大勢は決まりました。

ローマの勝ちです。

カルタゴからは莫大な賠償金が入ってきます。

事実上の属国として、そのままカルタゴを利用しつづける方が、絶対に、当時のローマにとってはいろいろと得だったはずなのです。

しかし、ローマは第三次ポエニ戦争を起こし、カルタゴを地上から消し去りました。

今日、我々はカルタゴの歴史を読んで 何を思うでしょうか。

「カルタゴは滅ぼされるべきである」

見事に熟したカルタゴ産のイチジクを持ち帰り、それを元老院で見せ、

「これほども芳醇な果実を産出する力を持つ敵が海路3日の距離にいる。カルタゴは滅ぼされるべきである」

と執拗に反カルタゴをはった元老院議員大カトー。

カルタゴはこのネガティブキャンペーンから30年後、第三次ポエニ戦争をローマに仕掛けられ滅亡します。

カルタゴは第2次ポエニ戦争後、貿易の手足をもがれても、それでも豊潤な農園経営だけで国を再建し、その経済力に恐れをなしたローマが意図的に戦争を仕掛けたということです。

あるとき、カルタゴの使者がローマ元老院で次のように発言しました。

「われわれカルタゴ人はあなた方ローマ人とともに3人の王と戦った。マケドニア王のフイリップス、シリア王アンテイオコス、マケドニア王のベルセウスの3人である」

元老院はこれを聞いて嘲笑で爆発しそうになりました。一角から痛烈なヤジが飛んだそうです。

「血を流さずにいて何をいうか」

カルタゴは兵を出さず、小麦を出しただけだったのです。

ポエニ戦争の第2次戦後、ローマの被保護者(事実上の属州)となったカルタゴでしたがローマが戦ったシリア戦線、ギリシア戦線でカルタゴは軍備を持たなかったため、小麦を拠出した、そのことを揶揄しています。

現代では、戦争とは巨大な経済力の費消であり、最も大切なのは補給と輜重、軍隊の移動と配置であることは自明の理屈であるのですが、当時のローマは同盟は血を流してこそ同盟であり、食料、金は同盟の証ではないと言い放ったのです。

今からたったの30年前、かの湾岸戦争で日本が1兆円もの大金を出したが、結局感謝の言葉がなかったのは、血を流さなかったからであるようですが、つまり、人間とは、2300年経っても、宇宙に出るようになっても本質的には何ら変わっていないということなのかもしれません。

カルタゴはローマの怒涛の攻撃を、最後は3年もの間耐え続けましたが、その栄華も落城し、完全に破壊され、地上から姿を消そうとしています。

勝者、指揮官小スキピオ・エミリアーヌスは涙せずにはいられず、近い将来はローマの番だと嘆息したそうです。

「トロイ、アッシリア、ペルシア、マケドニア、これらの大国はすべて滅びた。盛者は常に必衰であることを歴史は人間に示してきた。つまり、いつかわがローマもこれと同じときを迎えるであろう哀歓なのだ」

陥落後のカルタゴは城壁も、神殿も、家も、市場の建物もことごとく破壊され、五万人は奴隷に売られ、土地には塩が撒かれ、フェネキア人の国カルタゴは、地上から姿を消しました。

今世界遺産としてあるカルタゴは、ローマによってその後入植建設された、新しい都市です。

街の建設により、ローマは、カルタゴの記憶すら乗っ取ったのです。

米国の庇護のもと、戦後70年を過ごした日本の現代史と、建国以来700年の長きにわたり繁栄しそして消滅した、そんなカルタゴの歴史を比べてみれば、いろいろと考えることが多そうだと思う、そんな歴史好きの筆者からは以上です。

追伸、最後にこのような歴史の大局観を無料で知ることができる歴史キュレーションプログラム、コテンラジオ(Coten Radio)のページはこちらですのでご参考ください。

(2020年2月3日 月曜日)

(2013/11/26)事実上のローマ帝国皇帝カエサルについて(ローマ皇帝0代目零号機)