鎖国も士農工商もない江戸時代として教えられる令和の日本史について(昭和は遠くなりにけり)(2021/03/17)

地球平面説の図です(亀と象が支える世界)

▼大事なことですので書いておきますね。最近の小中高校の日本史の教科書には「士農工商」が載っていないのです。士農工商だけじゃなくて、聖徳太子も載っていませんし、鎖国もなかったことになっています。歴史の学説も日進月歩を遂げておりまして、近年の研究で「不適切だった」と判明次第、これまで常識として教えられていた「事実」もすっぱり教科書から削除されているわけです。おなじみの士農工商は、渋沢栄一を描いた大河ドラマでも解説されていましたが、実は昭和生まれ平成初期生まれにはおなじみの「士農工商」は、江戸時代の身分制度を示す語句として不適切だったということで廃止されてしまっていたのです。

▼少なくとも昭和の時代に教育を受けた筆者のような世代は、武「士」、「農」民、「工」(職人)、「商」人の順の上下関係を示す言葉として、「士農工商」をバッチリ記憶しています。しかし教科書制作会社の東京書籍のFAQページを見ると、Q5の項目に「士農工商」の記述がなくなったことが扱われています。FAQページの対象となっている同社の教科書を読んだところ、確かに「士農工商」の記述は見られませんでした。変更が加えられたのは、平成12年度の教科書から。意外にも、ずいぶん前から「士農工商」は消えていたのです。

▼修正の理由は2点。1つは近年の研究成果から、「士農工商」自体が、身分制度を表す語句として適当でないと判明したことです。江戸時代の身分には、基本的に「武士、百姓・町人等、穢多非人(えたひにん)」等があり、ほかにも天皇や公家、神主や僧侶など多種多様な身分が存在していました。単純に「士農工商」という表現やとらえ方はされていなかったということです。そして、これは絶対に教科書では教えませんし、人種差別撤廃こそ全て、という今の世界に潮流に真っ向対立する不都合な事実ですから誰も口にしませんが、穢多とはえたと読み、穢れ(けがれ)多きもの、非人(ひにん)とは読んで字の如く、人でないものとしてそのように呼ばれました。もう1つは、「士-農-工-商-穢多非人」という、上下関係の認識も適切ではなかったことです。武士こそ支配層として上位にはなりますが、ほかの身分に支配・被支配の関係はなく、対等なものでした。また、穢多非人も「武士-百姓町人等」の社会から排除された「外」の民として存在させられた結果、ほかの身分の下位にあったわけでなく、武士の直轄的支配下にあったのです。これらの見解から、東京書籍では「士農工商」の記述を廃止し、あわせて、明治維新にて「士農工商」の身分制度を改めた政策と認識されがちだった「四民平等」も、平成17年度の教科書から使用されなくなっています。

▼かつては賄賂政治の権化のように扱われていた田沼意次が、先進的な経済戦略を備えた政治家として再評価されたり、そもそも聖徳太子と言われた推古天皇(女帝)の皇太子であり摂政の聖人的為政者がいたという確たる証拠がないため、聖徳太子の文言が消えてかろうじて厩戸皇子の名前が残る、源頼朝像は本人かどうかわからなくなってきたので「伝」源頼朝像となるなど、研究の前進により旧来の歴史認識が変わることは少なくありません。そして、ついに「鎖国」についても、オランダや朝鮮とは国交があった、ということでその言葉は廃止となりました。

▼日本は国際化が遅れている、というような論調がされることがありますが、日本の歴史上、国際的ではなかった時代の直近は、いわゆる江戸幕府の260年の幕藩体制維持のための、キリスト教勢力を排除し外国との交易を経った(というか極小化した)鎖国体制に遡ることができます。最近では、長崎の出島の玄関口は開かれていたということであり、鎖国という言葉は使われなくなってきているようですが、日本の歴史上、特異なこの外国との交易を絶って独自路線で国を運営するという形で、260年間を過ごした上で、それでもぎりぎりのタイミングで開国し、そうして自国での近代化体制を急速に整え、欧米列強の植民地にならなかったというのは、世界史上特筆すべき事例だと考えています。この、江戸時代の鎖国の記憶や教えが現代の我々に対しても非常に広まっているため、また日本人が自国の歴史でとりあえず大好きな戦国時代(と明治維新)において、その結果として徳川幕府成立による豊臣氏の滅亡と国内キリスト教戦力を島原の乱で滅ぼし、そうして外国人(キリスト教勢力)を放逐して鎖国体制を完成させた、という戦国時代の戦後処理による日本史上最強の幕藩体制の確立の記憶が、よりその傾向を後押しさせているようです。さらに、その太平の世の中であった江戸幕府のタガもようやく緩み、外国からの侵略の脅威が日々現実的になっていく中で、(武家政権の)幕府による国家の近代化では難しい、日本人の記憶としては平安時代以前の天皇を中心とした国家体制に復して外国の知見を入れて急速に近代化しなければ世界の荒波に飲み込まれるという明治人の危機意識は相当のものであり、そのうねりがあの開国以来たった30年そこらで当時世界一の大国であったロシアを海で陸で打ち破って満洲の荒野に後退せしめた、国費の7倍強を費やして勝った大博打、日露戦争につながったのではないかと思うのです。こうした歴史的事実を並べてみますと、日本人に色濃く刻み込まれている日本は国際化が遅れている、という一般的な意識との隔たりに驚きます。おそらく、日本人は自国がやったことの正当な評価を、あまりできていないのではないかとすら思うのです。海外の人たちは、この日本の歴史の概観を聞くだけで、驚愕します。江戸時代の太平の世の中、幕藩体制を作り上げるために、戦国時代として一貫して100年間戦争、内戦に明け暮れた戦国時代を経験し、世界一の鉄砲生産国にいつのまにかなっていたという現実や、その後キリスト教勢力との激烈な主導権争いを経た上で、織田信長の勢力基盤を継いだ形の豊臣秀吉がヨーロッパ宗教勢力と断絶してバテレン禁止令を出し、江戸幕府においてそれが完成したのは、自国の独立を守るための、植民地化回避の、おそらく唯一の手段ではなかったかと思うのです。そのために、例えば宿年の敵同士であった国内仏教勢力との和睦もはかります。最大の浄土真宗本願寺派と大谷派には、京都の西本願寺、東本願寺を用意して、信徒を集めて事実上保護しました。これは、おそらく同じ宗教勢力であれば、日本古来の宗教団体の方が、まだ御し易い、統治しやすいという当時の幕府首脳の賢い「選択」の結果であったと考えられるのです。石山本願寺、のちの大坂城に立て篭もった一向一揆宗は、その前の織田信長を最も苦しめた、まさに不倶戴天の敵です。それでも、日本列島が、デウスの名の下に、旧教カトリック勢力のいち橋頭堡になってしまうことの方を当時の為政者たちは恐れた、その緊急避難的措置としての鎖国だったと思うのです。そのために、海外制度や文芸、宗教すら味方に付けようとした、織田信長は滅ぼされたのではないか、とすら考えているのです。鎖国すれば、海外の珍しい文物、知識、技術の導入も止まることになります。それでも、我々のご先祖様たちは、「今は(日本が主導的に)国際化の主人公になるだけの力はない」と冷静に判断した上で、宣教師などの植民地化の尖兵を寄せ付けずに幕藩体制という内向きの完璧なコントロールの中で、世界最大都市である江戸を中心に、一定の発展を遂げ、そうして次の明治維新まで、国内の知識層を育て、文化と教育を育んでいたことについては、まことにありがたいことだと考えているのです。この江戸時代の経験や準備期間がなければ、あの明治維新以来の日本の急速な近代化はあり得なかったと思います。海外の人たちが、江戸時代末期の日本を訪れ、多くの当時の人々が、大変幸せに暮らしていた奇跡の国日本を紹介しています。識字率は高く教育水準は当時の先進国を遥かに上回り、きちんとした政府(幕府)による統治が行き届き、地方自治(各藩)にも配慮されている、そのように感じた欧米人は多かったということです。日本は、薩摩藩一国で、万国博覧会に展示を出すという意欲を見せました。こうしたことからも、国際化とは何かということを大いに考えさせられるのです。単に海外に出て、外国人とつまらない話をするだけ、媚びるような態度をとるだけでは真の国際人とは言えないと思います。逆に、日本にとどまって、単に日本は偉いというだけでも、通用しないのは当たり前です。できれば自国の歴史を理解し、相手の国や地域の歴史も理解した上で、その人々、ご先祖様の連続の上に今現在自らにバトンが回ってきていると考えれば、自ずと背筋も伸びようと思います。そういうわけで、筆者としても、英語ができないとか引っ込み思案だとか言わずに、もういい加減中年のいい歳なんですから、堂々と世界に対しても自分の立ち位置や存在を発信しまた主張することができる、そのような態度で行きたいと思っています。多くの先人たちに、少なくとも笑われない、残念だと思われないような振る舞いをしたいと思います。

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