自分の人生を生きる

「自分の人生を生きる」

自分の人生を生きるというのは「誰の期待にも応えない」「他人の人生をなぞらない」ことと同義であることを知ってしまった夜の話をします。
2019年8月31日、暑い夏の終わりの夜に、割と重いテーマで話をしようと思います。
自分の人生を生きるということの話です。
その前に、コーチングをしている中高生と話していると、ドイツがマルク、フランスがフランという独自の通貨を使っていたのを、小説や物語の中で「発見」しているということを知って驚いた、というようなことがありまして、44歳(もうすぐ節目の45歳を迎える)の昭和後期生まれの筆者としては、非常に驚きを覚えるわけです。
そして、今もEUの中にいるけれども、独自の通貨を維持しながら、ついに、EU自体も離脱しようとしているのがイギリスであり、さらにイギリスという国の中も、大きく4つに分かれていて、その中の最強であるイングランド、が最も強硬に離脱を推奨しているといった話に展開していくと、なんだかこれまで無味乾燥だった学校の歴史の授業や社会の授業が、生き生きとしてくるねという話があったわけです。
こうした、興味のきっかけに触れた子供達は、自分で調べたり、既存の教科書や参考書や図表やらを駆使して、どんどんそこから周辺知識を広げて、瞬く間にいっぱしの「専門家」レベルまで知識知能を到達させます。
その勢いたるや、すごいものです。
こうした、興味のきっかけに触れさせる機会が圧倒的に、今のスクール型の教育システムには不足している結果、日本のオタクたちはアニメに動画ばっかりにその才覚を発揮するしかない、という残念なことになっているのではないかと思ってなりません。
同じ程度に、国際政治や法律学、生物学に工学、農学や芸術までありとあらゆる知育体験をした子供は、選択肢が無限に広がり、世界と宇宙の広さを心から楽しむそのような大人に育つでしょう。
そのためには、毎日きちんと寝て、きちんと起きてしっかりしたまともなものを食べるというのが本当に必要だと思います。
身体は、食べたものでできているわけです。
さて、自分の人生を生きるということに話を繋げます。
自分の人生なのか、他人に期待された人生なのか、そこが大きく重要です。
他人の期待に応える、応えたいという承認要求は誰にでもあります。
しかし、それを押し通して自分の本当にやりたいことに背を向け続けると、そのツケは年を重ねるごとに厄介なものになってまいります。
他人の期待に応える、要するに人の人生を(うまく)生きることに慣れてくると、それが変な自信につながり、それを捨てて本当の人生ではなかったなどと切ってしまうのが怖くなるわけです。

例えば、具体的には、
・中高で成績優秀者だった(クラスで一番とか)
・すごいレベルの高いといわれる大学に入った
・いわゆる一流企業に就活を勝ち抜いて入社した
・同期の中で真っ先に昇進して肩書きもついた
・管理職になり、部下もついた

という、単なる「事象」に過ぎないことを、実は人に言われた人任せの選択をしていたに過ぎないというようなことを認めてしまった瞬間、今までの自分が崩れ去ってしまうというような感覚です。
本当の自分の選択であったと自信を持って言えるためには、自分は自分の人生を生きているとただ言うだけではダメなのですが、どう自分に言い聞かせても、「誰か」の期待に応えようと、要すれば「誰か」のいう選択にそのまま乗っかっていただけなのではないか、なのでどうしても自分の心とずれたところで不満や文句や愚痴が溜まっていく、そのような自分の本心に蓋をして無理をしつづけるという塩梅です。
自分の気持ちに従うというのは、恐ろしいことで、誰の期待にも応えないということなのであり、やったことのないことにこれから自らチャレンジして責任取りな、誰も見てないから、ということであるから非常に怖いと思ってしまいます。
そういう人ほど、実は今までは精神的には非常に過保護に育っておりまして、今までは人の、他人の、要するに自分以外の世の中とか他者のせいにしておけば良かったのが、うまくいかない原因に自分があるというのがわかってしまうと辛いのです。

つまり、
・親に言われたから。
・世の中が、社会が不公平で悪いから
・会社が悪い、上司が悪いから(自分は悪くない)
・妻が、夫が反対するから
・社会が悪いから
・子供がいうことを聞いてくれないから

だから、今の生き方をそのまま続けるしかない、◯◯の「せいで」という魔法の逃げ道で、どうせ考えても仕方ない、という停滞思考になってしまっているのです。
しかし、どうしても自分からは逃げられないので、そのツケは人生のどこかで、回ってくるというわけです。
変な癖がついてからではそれを矯正するのに倍の時間がかかる、と芸事でもスポーツでも言われておりますが、人生においても全く同じではないかと思うのです。
つまり、人生を変える行動は、自分の人生を決めるのは自分であるということの、ただ一点であり、それ以上でも以下でもないということです。
他人の誰の期待にも応えない、というのは、唯一それらとは違った「自分の」期待に応えるということになります。
そのためには、今の心を支配している、嫌なものや面倒だと思っているものを、それがたとえかなりの地域の、学校の、会社の「期待」を背負っているものであっても、自分の心に従っていないのであれば、すぱっとやめる、嫌ならやめてそっと離れる、というのが得策です。
でないと、今の、自分が他人に期待されている、それは、妻や夫だったり家族だったり子供だったりやっている仕事の仲間だったり学校だったり、介護先だったり地域だったり、それはいろいろありましょうが、他人に期待されている自分が丸ごと本当の自分に置き換わったまま長い期間を過ごしてしまうと、人間ちょっと悲しいことになってしまうような気がするわけです。
嫌なことはすっぱりやめて、もしくは「自分のこと」に引き直して定義し直してもう一度最初から関係性を作り直すようにしないと今後の人生を楽しく過ごすのは難しいでしょう。
嫌だ嫌だといいながら、そこからやめられず、ずるずるずるずる離れきれない、そのような未熟な、覚悟のない心持ちになってしまっているのも、他人の期待の人生を生きるという、長い習性から抜け出せないことからきているのかもしれません。
つまり、誰の期待も関係ない、他人は他人、自分は自分という当たり前の心持ちを持ちましょうということです。
自分が満足できる自分の世界を作るのは、強い意志の力を必要としますが、それこそが本当の、掛け値無しの人生の味なのかもしれません。
人生はそんな瞬間瞬間の隙間時間でできているのだと思います。大いに生の人生の味を味わいましょう。
わたしがあらゆる場やコーチングの場、セミナーでも度々触れる課題です。特に、いわゆる日本の主婦層を対象にしていると、自分の人生を生きておらず、妻・母親という理想パッケージに自ら進んで縛られていて、自分自身が何だったのか思い出せないくらいなっている人のなんと多いことかと思います。
それが悪いとは言いませんが、自分自身を大切にすることこそ、他人を尊重して他人を活かす方法でもあるということを、考えてみても良いと思っています。
以上、それでは、今日はこの辺で。
(2019年8月31日 土曜日)

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