何のために勉強するのか

何のために勉強するのか

おはようございます。

夏になり本格的に受験勉強に向かう中学生や高校生に日々の一歩目が変わる魔法の言葉をお教えします。

2019年7月の義務教育、特に中学生のやっている勉強について思うところを述べたいと思います。

義務教育ですが、ほとんどの中学生が、高校進学を目標に勉強するので、この点については、高校受験のための受験勉強(中高一貫校に通っている生徒さんは中学受験)を例にとって考えてみたいと思います。

勉強って、なんのためにするのでしょうか。

この疑問は、数千年間に渡って人間社会で特に若い人たちによって発せられ、大人がそれに対していろんな手段で答えてきた普遍的な問いだと思いますが、筆者が44歳にして、孔子のいう、不惑、「四十にして惑わず」という段階を超えたところで感じたことを書くならば、

本当の人生を歩むため

ということになるでしょうか。

娯楽の消費者として、他人の養分として生きさせられるのではなく、自分の人生を自分で歩むために、自分のことは自分でできるようになるために、勉強しつづけることが、非常に重要なのです。

ここで大切なのは、ある一定のレベルや成果(高校入試の合格など)を得ることは、当然に目標とすべきでそれを達成することは喜ばしいことなのでありますが、そのような他人と目線を合わせたわかりやすい目標の他に、毎日の勉学や学習(自学)の習慣をつけることで、自らの目標として、自分はどこまでやれたか、と日々問うことができる人間になってもらいたいのです。

自分はどこまでできるか、今日はここまでやった、ということを日々振り返られ、ままならぬ自分を見つめることのできる人間は強いです。

楽な方に逃げない芯の通った人間になります。

そうした試行錯誤を通じて、筆者の心の師であります某地元会計士の先生が発せられた「どのくらいの時間をかけて、どういう勉強の仕方をして、どのくらいの完成度でテストを受ければ何点取れるという結果となるのか、その絶対的な因果関係、感覚を身につける」ということが、受験勉強に限らず、社会人になっての仕事の能力をはかるうえでも、とても大切な感覚となってまいります。

これがわからない社会人と一緒に仕事をすることになったときには、非常に残念な結果が待っていることになります。

仕事の締め切りや品質、そもそも何をやったら仕事として納品できるのかという絶対的な感覚がなく、ただがんばる、という救えない無知人間に出会ってしまう可能性があるのです。

これではいけません。

つくる人間を増やす

そのような、人間をつくる、ための訓練として、数千年前から人間社会では、勉強すること、学習することを通じて人間を鍛え、人間同士を社会的に結合させ、研究させ、そうして人間社会を(多くの間違いを通じながらも)前に進めてきたというわけです。

馬車の代わりに自動車とかいう鉄のカタマリが走り回り、夜になってもLEDとかいう煌々とした明かりが灯り、PCモニタと呼ばれる薄っぺらい箱の向こうには異世界が広がってWebとかいう技術でつながっています。

そして人々はスマホという小さな粘土板で、遠く離れた人たちとおしゃべりしていますし、雲の上には人を乗せた鉄の鳥が飛んでいて、地面の奥深くにも地下鉄とかいう鉄の大箱が走っているというわけです。

人間が、20万年前にアフリカ南東部の端っこにわずかに誕生(発生)してから、延々20万年間が過ぎ、人間は学習と社会性という技を武器に、ここまで人間社会を前に進めてきたというわけです。

そんな世の中になったのもつかの間、地球環境は疲弊し、人間自体も世界的な少子高齢化で、21世紀末の2100年頃には世界人口が減り始める(爆発的に増えているのはアフリカ大陸だけ)という新しい問題点、というか転換点がやってくるのが確実視されているそんな人間社会において、なんらかの旗を立てる自立した一個の人間を自らで作り上げるという大変わくわくするけど実はしんどい、勉強というのはそのような日々の作業な訳です。

己に恥じぬ戦いをなされませ。

これは、世界がどのように希望に満ちていようが、世界が逆にどのように残酷に見えようが、自分自身の行く末は自分が決めると決めた人間の誇りと軸にはどんぴしゃりとはまる言葉ですので、お勧めします。

己の人生をどのように生きるかというのは己自身が決めないといけません。

そして、それは日々の、今の一歩一歩に全てが集約されています。

いきなり、なんの努力のプロセスもなく成果が降ってくることはないのです。

そう考えると、日々の一歩目から変わってくるのではないでしょうか。

夏になりました、中学校3年生、特に公立中学校の3年生にとっては、部活動の最後の大会も終わり、そうして自分の進路に向き合う人生で最初の勝負の時が訪れました。

自分に真っ直ぐに向き合い、己に恥じぬ戦いをなされませ。

最初や途中の位置や、今の(悪い)成績など、何も関係ありません。

どうか、自分の人生に向き合い、自分の時間を粗末にせず、一分一秒を燃やし尽くすそのような振る舞いをされていただければ、おっさんにとっても、こんな素晴らしい姿はございません。

そのような若人が社会に出てこられた時には、喜んで一緒に、この壮年も身体に鞭打って共に汗を流して働かせていただきたいと考えております。

一緒に世界を変えましょう。

楽しみに待っています。

そのまんま、自分で考えず、勉強せず、運動もせずに他人の養分として暮らすか、自分で考えて動くか、どっちか決めろということです。

本当は、「近頃の若いもんは」とだけ言う偏屈なおじさんになりたかったのですが、人生経験を多く積むと、どうも功利的になってしまい心にもないことを申し上げてしまう筆者からの雑文記事は以上です。

(2019年7月7日 日曜日)

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