老人たちを活かす道

老人は果たして害悪なのか

なぜ何も生み出さない老人を養わなければいけないのでしょうか。姥捨山のような制度は違憲なのですか?といった過激な意見があります。これに正面に答えてみます。この手の質問に対して、既に、「自分が老人になったときのことを考えろ」とか、「過去の貢献がある」と言うような回答が多数ありますが、そういうアプローチだと、質問している者が暗に陽に主張している、「老人は現時点では無価値だ」という含意を認めてしまって負け戦になってしまう懸念が高く、これは筋が悪い回答例だと思います。ですので、そうじゃない方向、すなわち、老人は現時点でも大いに価値があるという方向で話を進めて論じていこうと思います。

GDPには、三面等価の原則というものがあります 。生産と分配と支出が等価になります。考えてみれば当たり前のことで、消費されない物を生産しても死蔵されてしまいます。商品が売れたら売上が計上され、賃金になったり会社の活動資金になったりします。商品やサービスは、それらを喜んで買ってくれる人がいなかれば成り立たないのです。指で歯を磨く人ばかりになったら歯ブラシは売れませんし、塩を刷り込みゃいいじゃん、という人ばかりになったら歯磨き粉も売れないわけです。

「何も生み出さない老人」は、逆に考えますと単純に生産せず消費します。「生み出さない」ことに不満を感じていることから恐らくこの手の質問される方は、現在働いている(しかも、労働者的階級での作業)のだと思われますが、現役世代に働き口があるのは、そうやって仕事を奪わず、それなのに現役世代の務める企業の売上に貢献してくれるお客さんがいるからです。これは当たり前で、経営に近い立場の人ほど、かかる意識を持っているものです(意識高い系とは言いません)。

食べ物はお腹いっぱいになったらそれ以上食べ切れないように、一人が消費できる量には限界があります。そのため、消費を増やすには人口を増やす必要があります。人口を増やすには、出生数を増やすか、寿命を伸ばすかの二通りがあります。ですが、姥捨山は後者に反するものですし、前者に寄与するものでもありません。

三面等価の原則は、国全体に対してある程度の期間を通してみると成り立ちますが、個人に適用するとタイムラグが発生します。サラリーマンなど賃金労働者においては、就職前は親の分配分を消費します。就職後は一転して生産過剰になり、その結果消費する以上の分配を受けます。この分配には老後に年金を受ける権利の分も含まれます。そして退職後はそれまでの蓄積を取り崩しながら生涯の間ずっと消費を続けます。三面等価の原則のタイムラグのおかげで現在の現役世代が老後のための貯蓄を行えているのです。姥捨山はこの流れを消費の前に断ち切ってしまうため結局現役世代の首を絞めることに繋がります。

姥捨山が違憲であることは憲法第二十五条に生存権が規定されていることから明らかです。
以上まとめますと、老人は「何も生み出さない」で消費を行ってくれるため、現役世代の過剰生産物の顧客として養うことに利益がある大事な存在です。姥捨山は違憲ですし、自らの首を絞める行為でもあります。

以上です。