(2020/03/20)映画の本当の主人公には闇の面があってその要素が人気の秘訣であるという法則を解説したいと思います
おはようございます。
2020年3月のビルメン王ニュース、本日のお品書きは、映画の本当の主人公には闇の面があって、その要素が人気が出る秘訣なのだという法則について論じてみようというものです。
前回の記事からの続きになりますが、今回の記事だけを見ても読んでも独立してわかるように書きますのでご安心ください。
もののけ姫、という作品があります。
『もののけ姫』(もののけひめ)は、スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画作品。監督は宮崎駿。1997年(平成9年)7月12日公開。宮崎が構想16年、制作に3年をかけた大作であり、興行収入193億円を記録し当時の日本映画の興行記録を塗り替えた。
ウィキペディアより
スタジオジブリが出した名作で、今でも多くのファンの心を掴んでいる作品ですが、このアニメーション映画、実は主人公は表題(タイトル)のもののけ姫である「サン」ではない、というところです。
本当の主人公は、東と北の間より来る、「アシタカ」であり、彼の(おそらくアイヌ部族の)「大王」となる口伝を後世に、彼の子孫が伝えた、という形になっているのです。
そのアシタカは、東からやってきたナゴの神(名護守)というイノシシ族の大将であったけれども、エボシ御前の放った石火矢(鉄砲)が骨を砕き、そうして恨みがつのり回り回って祟り神になってしまった怨霊が村を襲った際に、村の乙女子(カヤという許婚がいたから余計に)を守るために、一人この怨霊となったナゴの守に立ち向かい、彼の両目に矢を打ち込み絶命させることになります。
片目を打ち抜いたときに、ナゴの守から受けた怨霊(ぐにゅぐにゅした気持ち悪い黒っぽいワームのような物体)を右腕に受けながらも、冷静にもう一つの目を射抜いて、そうしてナゴの神は恨みを込めながら絶命します。
そして、ヒイ様という、村の巫女のトップでありシャーマンである女性が、恨みを忘れ、鎮まりたまえと鎮魂して、その場は終わるわけですが、このようにして、ナゴの神の恨みのパワー、いわゆるダークサイドの力が、この完璧なイケメンの、将来を嘱望された村長となるべき人物であるアシタカに宿ってしまうのです。
そして、ここが重要なのですが、ヒイ様は無慈悲にも、この右腕の傷はやがて大きくなってそなたを殺すだろう、西の方に旅立てば何か解決策が見つかるかも知れない、などという無責任なことを言って、体良くアシタカを村から放逐してしまいます。
ここで、なぜアシタカは村を去らなければならなかったのか、という点で、村の誰も、さらにはアシタカ自身も、全く疑問に思っていないのですが、すなわち、村で死ぬまで余生を過ごしてもよかろうもん、というところをどうして超常能力を持っているシャーマンであるところのヒイ様が許さなかったのか、というのがポイントなのです。
つまり、ヒイ様から見れば、村を襲おうとしたナゴの神も、その恨みを受けたアシタカも、同程度に「危ない」ダークサイドの存在であり、こんな化物を村に置いておくのは村の存続を考えた場合ありえない、ということだったわけです。
その証拠に、アシタカの右手は、その後のストーリー展開上、矢を放てば百発百中で両腕を切り落としたり、また遠くから放った矢が正確に馬上の武士の頭を飛ばす、といった残虐な描写から、さらには10人がかりで開ける山門を、右手一本で、しかも胸を石火矢で撃ち抜かれていながら、もののけ姫=サンを抱えながらも開けてしまうという、超常能力を発揮することになります。
これって、もはや、JRRトールキンの世界的名作、「指輪物語」で指輪を手にしてしまったフロド・バギンズと一緒です。
まだ、フロドは人間(ホビットですけど)の意識を十分持っていますが、その前持ち主であったビルボ・バギンズは、ことあるごとに「指輪はどこいった?」と気にする、もはや指輪の奴隷となりつつありますし、ゴクリに至っては、すでに人間(しつこいようですがホビットですけど)であった意識すらなく、指輪という「いとしいしと」を手に入れることにしか喜びを見出せない、醜い哀れな存在に成り下がっているというわけです。
つまり、主人公それ自体の元々の善性や活力、正義感やイケメン度、から、このようなダークサイドの力がどんどんその彼から人間性を奪っていく、その塩梅が読者の、観るものの興味をいやがおうにも盛り上げる、そのような鉄板のストーリー構成であるというところを、世のクリエイターや作家たちは、本当によくわかっているということなのです。
ですので、もののけ姫、の本当の主人公は、ダークヒーローアシタカであり、その恨みパワーでたくさんの超常能力を発揮し、最後は大怪物デイダラボッチと相対し、そして首を返すというリスク満点の行為を行った結果、恨みが消えた、という、対消滅機関もびっくりのフィナーレを迎え、そうして、彼のアイヌ民族の「大王」としての口伝は彼の子孫によって永遠となった、というようなプロットなわけです。
その彼の子孫、ですが、少なくとも(おなじ声優の)カヤとサン、二人にそれぞれ子供がいて、それぞれが伝えた、ということが正解でしょう。
なにしろ、民族を代表する大王の物語なのです。
チンギスハン、のDNAを持つ人類は、2000年代には、実に全世界に1,600万人いるそうです。
大王なんですから、そういうものとして、決して、くれぐれも、今の価値観で過去の事象や背景について、変に批判しないでいただきたいと思います。
キリスト教も、仏教も、そして当然人権思想や共産主義、資本主義すら当然なかった世界、すなわち縄文時代からの生活様式や考え方でずっと過ごしてきたアイヌ民族の長が、この戦国時代(天皇の力は地に落ち、将軍たちの牙も折れたと聞く、というセリフがあるので、室町時代末期、戦国時代であることが時代考証としてあります)にどのように遠征して振る舞ったか、古事記や日本書紀に描かれた、ヤマト民族のヤマトタケルの物語のアイヌ民族バージョンを1997年に壮大に再現してみた、これは壮大な叙事詩なのです。
と、いうことで、1997年当時に、筆者がVHSビデオで購入したもののけ姫のパッケージには、「アシタカのようにおなり、アシタカのように生きよ、と伝えられたという」というような言葉が載っていて、この物語の主人公が、山犬の化物に育てられたもののけ姫ではなくて、アイヌ民族の大王(となる)アシタカの大冒険譚であることがわかるようになっていましたが、さて今のブルーレイ版などにはどのように書かれているのか、見ものであります。
今日も、昨日に引き続き、映画の主人公の闇の面に無意識のうちに惹かれてそのキャラクターに想像以上の人気が出るというプロセスを、できるだけ論理的に解説してみました。
引き続き、他の表現作品についても、こうした面白い視点で語り合えれば楽しいと思っております。
本日の記事はここまでといたします。
次の日の記事をお楽しみに。
こちらからは以上です。
(2020年3月20日 金曜日)