(2021/04/02)私の小学校6年生の時に亡くなった安永校長先生の話から始めます

 

▼筆者もいい年ですが、筆者が小学校5年生のときに赴任され、小学校6年生のときに病気で亡くなられた安永校長先生のことはよく覚えています。日々仕事に介護に子育て、地域活動に自己啓発と忙しいことこの上ない、少子高齢化時代の現役世代真っ只中の筆者として、思うところが多いので述べてみます。みなさん、お子さん(子供)や部下の「教育」「指導」について特に困ったことはありませんでしょうか。筆者は(よく)あります。特に、どうしても着手ができずに成果もあげられない、それでも心の中は葛藤で一杯なそのような部下や子供をよく見てきました。勉強しろと言っても聞かないし、仕事を任せたらやらないし、やらせようと指導したら教え方が悪いとばかりむくれたり反抗的な態度を取りばっくれる、無視する、不登校じゃなかった不登社になってしまうような、そんなひ弱じゃないかというような繰言です。安永校長先生は、いつもひたすら校庭の木々の剪定やら砂場の砂の入れ替え、遊具の整備や構内の備品の整理や整備を、用務員の方と一緒に作業着と軍手で、朝早く登校してくる筆者よりも早く(朝6時台?)から作業をしていました。おそらくそれは校長としての業務ではないので、勝手に時間外業務として、いちボランティアとしてやっていたのでしょう。この校長先生は筆者人生史上最も校長先生(先生でもない)らしからぬお方でした。

▼安永校長先生は、校庭の砂場に砂を入れたり杉の木の枝打ちを業者さんや用務員の先生(事務員)と一緒に早朝からよくやられていて、朝顔の水やり係として早朝から元気よく雪の日に半ズボンで小学校に登校していた筆者などはよく話しかけてもらい、また話しやすい校長先生ということで筆者らも校長室に顔出したりしている仲でありました。校長室の部屋のドアはいつでも開けているからいつでもなんでもいいから話にきなさい、というのを聞いたのは、筆者の40数年の人生の中で、この校長先生と田中角栄(当時大蔵大臣)だけだと記憶しています。安永校長先生は、永眠された後、退職金の一部を、筆者の小学校の国旗掲揚台の新築費用にとご寄付くださいました。安永校長先生、当時小学生だった筆者は未だに先生の顔をよく覚えております。先生がやられていた学校の整備や整理整頓作業を思い出すにつけ、日々の行動を少しでもちゃんとやろうと思い出します。誠にありがたいことです。

▼さて、そんな安永校長先生のような人が「きちんと黙々とやっている姿」を見る貴重な機会がないまま大人になってしまった、ちょっとかわいそうな何事も着手できない、ゆえに完了できない人にもう一度考えてもらいたいと思います。なにかの仕事や作業や書類の提出に関しては、
 1 出す
 3 出さない
の2種類しかないように見えますが、そうではありません。
すなわち、
 1 期限内に出す
 2 期限を過ぎてから出す
 3 出さない
の3種類です。
そして、2 となってしまいそうな場合、
 A 理由を先方に行って延ばしてもらう
 B ばっくれる
の二択がありますが、
 A をする人が信用され、
 B をする人は信用を失います。
間に合うように出せる1の人は意外に少なく、たいていの人は2になってしまいますが、ここで、理由を言って待ってもらうこと、いいわけ、と呼ばれてもBよりAの方が、ずっとオッケーなのです。

▼書くこと、作業することの内容面に関してももちろん、内容がバッチグーであることに越したことはございませんが、内容面で言うと
 1 書けた
 3 書けなかった
の2択があるわけではありません

1 書けた
2 書こうと思ったけど書けなかった
3 書かなかった
の3つです。

これも 2 の場合
どこが分からなくて書けなかったの理由が分かれば、問題は解決します。
そのために市役所や町役場の窓口やコンサルタントや当社なんかが存在しています。
ここで、「ここがどうしても分からなかったので教えてください」と聞けることから全てが始まります。

▼時代が違うと言ったらそうなのかもしれませんが、モチベーションを上げて仕事なり勉強なりに向かう姿勢の作り方として、とりあえず「形から入る」「背中を見て学ぶ」、あと「自分で考える」といったことを推奨(強制)されてきた世代にとっては、今の時代の子育て含む若い人の「マネジメント」というやつに自信を失ってしまうようなことが多すぎる、ある意味「クリーンな」「ホワイトな」世の中になってきたなあと感じる今日この頃です。筆者が小学生時代には、悪いことした児童が廊下に立ってるのは普通でしたし、クラスの他の面々に迷惑をかけた人は、「班」に入れてもらえずに先生の教卓の側の端っこのところにポツンと座らされる「1人班」というところに「収容」されることもよくあって、筆者も小学校2年生の時に担任の若い女の先生から「1人班」への異動を言い渡され、反発心と途方にくれた感をないまぜにしたなんとも言えない気持ちを味わったりいたしました。

▼ちなみに、後で振り返りますと、その時の先生が、一番筆者のことをよく考えてくれていたのだなあとぼんやり考えるのですが、たかだか7歳児の当時の筆者には、そんなことわかることもなかったのです。さらに脱線しますが、筆者は小学校1年から6年まで、毎年担任の先生が変わったのですけれども、うち、4年生と6年生時以外の担任の先生は4人が4人とも、筆者らの担任の時期に「結婚」して、その結婚パーティーなどを学校の教室でやった、という思い出がございます。その後産休にめでたく入られた女性の先生もおられました。結婚パーティーとして、先生に秘密でくす玉などを作って、折り紙を切り刻んだものをダンボールで作ったくす玉の中に入れまくる、というような楽しい作業をした思い出がございます。

▼そして、さらに脱線しますが、5年生時の担任の女性教師に至っては、結婚したけれども数週間後には「離婚」しているという、大人の世界の大変さをある意味体現し体当たりで指導に当たってくれたというお話もございました。いつのまにか「旧姓」に戻っていて、保護者含めてそれをスルーしているのが、なんだかおかしく、何食わぬ顔で担任を学年末まで続けた先生にはいろいろとご心労もあったことかと思います。さらに、この担任の先生は、食べ物の好き嫌いが激しく、特に牛乳が苦手でいらっしゃったご様子で、それならそれで児童にあげたりすれば良いものを、普段から食べ物はなんでも残さず食べなさいなんておっしゃるもんだから、飲めない牛乳を教卓の横の担任机の中に押し込んだまま忘れてしまう癖もお持ちのようで、筆者などが大掃除の時に、その、消費期限が数ヶ月前に過ぎ去ってしまった牛乳パック(それも常温)を発見し、洗面台で雑巾を洗いながら中身を処分させていただいた、というような甘酸っぱい思い出もございます。いい先生もおられれば、(筆者の主観では)そうでもない方もおられる、そういうことです。なお、数ヶ月間常温で放置されました牛乳パックの中身は、少しばかり茶色がかっておりまして、その悪臭たるや、今でも思い出すと控えめに申し上げても吐き気を催すものだったのですが、職員室に申し出ようとしても、当時仲の良かった(男性の)校長先生が病気療養で長期入院(その後、筆者が6年生の時に亡くなります。原因は早年性ガンと記憶しています)していたこともあり、教頭先生か誰かにこの事実を申し上げたと思うのですが、軽く流されて闇に葬られたのではないかと考えています。小学校も、そのような大人の組織でございました。

▼また、小学校6年生の時には、校歌の1番と2番を、学年斉唱の時かなんかで思い切り間違えた結果、当時のガタイのいい先生(担任じゃなかった)に拳骨で思い切り殴られ、大きなたんこぶができた記憶もこれ書きながら蘇りました。筆者は声が(当時から今も)でかいですが、意図せず1番と2番を間違えただけであり、なぜ殴られなければならないのだろうと今でも疑問に思っておりますが、それも昭和時代の空気なのでしょう。その殴った先生は、少し前風の噂で地元の近くのどこか別の小学校でなんと校長先生になられているということなので、昭和時代の人事考課には、少なくとも体罰での考課低下というのはなかったということになります。おそらくこちらの校長先生は、殴ったことも忘れておられるでしょうね。

▼そう考えていきますと、まあ17世紀のヨーロッパ半島の片隅で起こったフランス革命というやつで当時の国王のルイ16世と妃のマリー・アントワネットが断頭台(ギロチン)で殺されていなかったら、おそらく(今の)基本的人権といった考え方は生まれなかったであろうと考えますに、我々というのは、自分も含めて、周りの歴史的足跡に応じた雰囲気に容易に流される、そのような儚い存在であるのかもしれません。そんな、昭和の色香が色濃く残る、といいますかもう35年ほど前になります昭和末期のそんな地方都市の小学校の、どこでもありそうな一コマをご紹介しましたが本論に戻ります。どんなに言っても聞かない、そんなお子さんや部下や関係者や取引先がいらっしゃったら、意を尽くして手を尽くしても、それでも全く響かないというところまで来たならば、こう伝えるべきだと思います。

親に反発し、学校から逃げ出しても、自分からは逃げ出せない

これは、「お天道様が見ている」という言い方をもっと自分基準で引き直したものです。出典として、筆者がふと思い出しましたのは、『ゲド戦記』(ゲドせんき、Earthsea)でありまして、これはアーシュラ・K・ル=グウィンによって英語で書かれ、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説です。

これを邦訳して、宮崎吾朗監督・脚本の独自解釈によるストーリーとしてアニメ化もされましたが、とにかく、この日本で映画化されたゲド戦記の副題こそ「自らの影との戦い」と考えるのです。究極の中二病として、生きる意味を見出せず、王子でありながら国父と慕われる父王を刃で殺めて逃げ去る主人公。

衝撃のオープングです。

そうして、自分の境遇から逃げ続け、逃げ続けた最果てに、大賢人ハイタカ(本当の名前はゲド)のところにたどり着き、彼をメンターとして旅をしながらもアレン(本当の名前はレバンネン)は自身の「影」に怯えていましたが、終盤ではその影こそが、抜け殻のような存在になり、アレンの体を求めてさまよっている「本当の自分=光」であることが明かされ、アレンは自らに本当に向き合い、もともとわかっていたことですが自分の人生を自分の足で、自分で責任をとって歩いて行くことをようやく決めるというわけです。

途中、ハイタカ(本当の名前はゲド)の最大のライバルであるクモ(永遠の命を得るために、禁断の生死両界を分かつ扉を開いた魔法使い)との最終決戦を前に、こともあろうにアレンは単身のこのこでかけた挙げ句にクモの誘いにはまって(やることもないのに)死ぬのが嫌だ、永遠の命が欲しいという、もうあれですね、中二病マックスの誘惑に囚われ、クモのただの手足(部下)として余生を過ごすことになってしまうのですが、そこはハイタカやヒロインのテルー(本当の名前はテハルー)が連れてきた本当の自分(影の自分)に向き合い正気を取り戻す、という二重三重の手のかかりようです。

この、アニメ映画版「ゲド戦記」の中二病主人公アレン(レバンネン)に比べれば、みなさんの心を悩ませる勉強しないお子さんや仕事しない部下やその他うまくいかない関係先など、ほとんど問題ないレベルではないでしょうか。

要するに、どこまで逃げても自分からは逃げ出せない、自分に向き合うしかない、自分の誇りにかけて自分の足で立つしかない、ということを教えてくれるまたとない題材だと思っています。

エンラッドの王子。

17歳。

その純粋で生真面目すぎる性格のために、世の中の暗黒に対してまで深く心を悩ませるうちに、本来は心の「光」だった彼の分身が「影」となって去ってしまいます。

やがて心の均衡を失い、衝動的に父王を殺害した挙句、国を捨てて失踪

放浪中に偶然ハイタカに命を救われ、ハイタカと共に、世界に異変を引き起こしている災いの根源を探す旅に同行します。

ここで大切なのは、血の繋がった家族でもない、ナナメ上の大人、メンター(アレンにとってはハイタカ)の存在です。そして、ハイタカはアレンに対して「説教」することはあまりしません。むしろ、衝動的なことをやって取り返しのつかないことにならないように、最大限気を使っています。

えらい上司です。

現代に生きる子どもや若い人たちも、このように、物理的にはなんの不自由もないけれども、人として、我々おっさんと同じに、いろいろと心の闇を抱えているのではないでしょうか。そう考え、自分に向き合うことを、できれば直接の上司や親ではない信頼できる別の大人の第三者、大賢人ゲドのような人を、求めてみてはいかがでしょうか。

最後に人に教えてもらったのですが、全く同じことを言っていると思うアンパンマンマーチの歌の一節をご紹介します。

なんのために生まれて なにをして生きるのか
答えられないなんて そんなのはいやだ

今日の部下の教育や指導についての記事はこのくらいで終わります。

大賢人ゲドにも、究極の悪役(弱者)であるクモにもなれそうにない、凡人の筆者からの全てをアニメから引き出そうとする意欲的だけれども無駄に長い記事を終わります。

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(2015/02/23)不老不死を願い続けた始皇帝が最後に葬られた死後の都始皇帝陵を語る(一度しかない人生)

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