ヤマト運輸が個人向け宅急便事業を始めた物語

宅配ならヤマト運輸を推しています

当社(というか筆者)では、使う配送サービスはヤマト運輸一本と決まっているのですが、これは、かつて魔女の宅急便というアニメ作品にヤマト運輸がスポンサーとして黒猫のジジを推ししていたから、ではなくて(多少はありますが)、魔女のキキが初恋の人に似ていたからでもなくて(多少はありますが)、また古墳マニアであるところの筆者が箸墓(はしはか)古墳以来日本中に数千基の前方後円墳を作ってきたその主体が大和国のヤマト王権と言われる存在だったからであるわけでもなく(多少はありますが)、れっきとした理由があります。

ヤマト運輸の実質的創業者である小倉社長が、大手百貨店三越の配送を請け負っていた時、配送場の賃料払えと三越の岡田社長に言われて切れて、百貨店向けのようなすべての大型法人相手の仕事を降りて消費者向けの直接個別配送をはじめたあの話が大好きなだけなのです。

その時歴史が動いた

ヤマト運輸のこの決断、NHKその時歴史が動いた。風に少し詳しく解説します。

ヤマト運輸は日本の物流システムに変革をもたらしました。比較的小さな荷物を配送する宅急便事業で頭角をあらわしました。今では全国にネットワークを張り巡らせ、業界のリーディングカンパニーとなっているのはご承知のとおりです。実は、40年以上前、三越はヤマト運輸(当時は大和運輸)にとって当時最大の取引先でした。しかし、三越の社長に岡田茂氏(故人)が就任したことにより、状況が一変します。岡田氏は売上至上主義を掲げ、取引先を顧客とみなしました。取引先に対して商品販売を行うようになったのです。三越は所有する絵画や家具、時計といった商品を取引先に販売しました。取引先にとって三越は大口顧客のため、簡単に「ノー」とは言えませんでした。そして、三越は業績が悪化したため、ヤマト運輸に対して商品販売の他に、配送料金の引き下げや三越流通センターにおける駐車料金などの徴収を行うことを通告しました。無理な要求ですが、ヤマト運輸にとって三越は最大顧客です。ヤマト運輸が経営危機に陥った際に救いの手を差し伸べたのが三越の前身である三越呉服屋だったという過去の負い目もあり、いったんは要求を受け入れざるを得ませんでした。

しかし、その後ヤマト運輸の三越出張所では大きな赤字を計上するようになり、配送料金の改定が聞き入れられなかった事も重なり、ついにヤマト運輸は、三越との決別を決断します。50年以上太い取引関係にあった両社ですが、ヤマト運輸は三越との配送契約を業者側から解除したのです。最大の顧客と決別することは短期的には大きな影響を及ぼします。売り上げの低下は免れません。しかし、短期的な売り上げよりも、同じ価値観を共有してビジネスを行うことの方がはるかに大事でありそれこそが矜持だとヤマト運輸は考えたのです。すごい決断です。この話だけで、当社(というか筆者)はご飯何杯でもおかわりできます。少々配送料が高かろうが、この矜持を持ち果敢に実行した、ヤマト運輸の決断が琴線に触れて思い出すだけで楽しいのです。

ヤマト運輸は、三越との契約を解除するにあたり、ビジネスは三越に限る必要はないと考えました。市場の変化に合わせ、知恵を絞って新たな市場を開拓することも必要なことだと考えました。将来のビジネスチャンスを見据え、三越との契約解除に踏み切ったのです。実はビジネスチャンスの芽は出ていました。宅急便事業です。宅急便はヤマト運輸の商標ですから、今後この業界はあとから作られた「宅配便」といった一般名詞で語られるようになりますが、とにかく宅急便事業を本格化する上で百貨店配送は大きなリスクがありました。百貨店配送は市場規模が大きいものの、競合との競争が激しく、需要の変動幅が大きく、実は安定していない事業だったのです。特に、中元と歳暮の時期には通常の月の7~8倍に増えるという特徴があり、大きな事業上の負担になっていたのです。そこで、年間を通して安定した需要が見込める個人向けの宅配サービスである宅急便事業に着目しました。個人向けの宅急便事業にも中元や歳暮による需要変動のリスクがありますが、百貨店配送ほど需要の変動幅は大きくありません。しかしながら、ヤマト運輸がクロネコヤマトの宅急便として個人向け宅配サービス市場に参入したとき、その業界は官業であった郵便小包が市場を独占していました。新規参入はたいへん難しい市場だったのです。個人向け宅配サービスは輸送効率が悪くリスクが高いと思われていたからです。

しかしながら、ヤマト運輸の小倉社長は、個人向けの宅配サービスが集荷・配達先がどこかは事前にはわからず、取扱量は不確定的、荷物は小口になる傾向があり、たとえ1口でも配達する必要があるという点について、考えに考えた上で、「個人向け宅配サービスは採算がとれない」という業界の常識を疑いました。確かに、個々のケースとして考えると偶発的に荷物が発生するため、輸送量のばらつきが発生し非効率に思われます。しかし大きな都市圏ブロック、例えば東京や大阪といった大きな範囲間での荷物の輸送のやり取りをすると考えれば、荷物の非効率性は発生しないと考えたのです。しかし現実問題として、採算がとれるだけの取扱荷物の総量を確保することができるのか、集荷のシステムを構築できるのか、配達ネットワークを構築できるのかといった問題がありました。

「思い」とかじゃなくてきちんと事業が成り立つか数字で把握する

ここで数字で説明します。宅急便が誕生したのは1976年ですが、当時の郵便小包の取扱量は年間約1億9000万個、国鉄小荷物は約6000万個で、二つを合わせて2億5000万個が既に小荷物として扱われていました。仮に1個の料金が500円とすると、年間の市場規模は約1250億円あると推計することができます。参入して採算がとれるだけの市場規模はすでにあるとヤマト運輸は判断しました。結果として、市場規模はさらに拡大し、2003年には民間の宅配便と日本郵便のゆうパックを合わせて取扱量は30億個を突破するまでに成長しました。結果的に、ヤマト運輸は先見の明があったことを示す形になったのです。いや、ヤマト運輸こそが新しい個別配送という市場を新たに作り出し、育て上げたのです。

このようなヤマト運輸の歩みを振り返っていくと、この会社の歴史には、自社の矜持として許せない大口取引先の「配送センターに賃料を要求した」大口顧客の存在があり、それに対して、目先の大幅売上減を受忍するヤマト運輸トップの判断があり、そして考え続けた結果の個別集配サービスへの参入と市場成長による業界リーディングカンパニーへの成長、というものが連綿と続いているのです。この「物語」をことのほか愛してご飯何杯でもおかわりするだけでにとどまらず、周りにこのようなブログ記事でツバを飛ばして吹聴して回る筆者のような趣味を持っている人間にとっては、自分が配送するならセブンイレブンからヤマト運輸、というのが染み付いているのです。ヤマト運輸の事実上の宅急便の創業者である、この小倉社長の自伝を読んだことがありますが、この本には、個人名は三越の岡田社長しか出てこず、あとはひたすら市場分析と顧客ニーズの話だけだったことが強烈に印象に残っています。そんな事業構造を理解しようと努力しつづけた、小倉社長にとっても、三越の岡田社長にとっても、この決断は日本の経済と産業を大きく転換させた事件であったといえるでしょう。かように仕事というものは奥が深く、面白いものだと思います。それでは今日はこのへんで。

ヤマト運輸の独壇場だった宅配のラストワンマイルにもついにアマゾンが迫ってきており丸ごと飲み込もうとしているという話をしたいと思います(2020/02/03)

(2020/02/03)ヤマト運輸の独壇場だった宅配のラストワンマイルにもついにアマゾンが迫ってきたという話をしたいと思います

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