神社や寺院のお賽銭もキャッシュレスが進んでいくというコスト低減社会の到来を論じた記事です(2019/12/18)
おはようございます。
2019年12月の師走の最中、今年も残りわずかになりましたがいかがお過ごしでしょうか。
日本全国地方創生、という言葉が溢れていますが、これは、逆に人が少なくなって高齢化しているということへの危機感の裏返しです。
そうして、人口が増えているのではないか、という幻想を抱いている一部の大都市圏であっても、実数を追ってみるとやっぱり減っている、ということでありまして、そんな1950年くらいから2018年まで毎年の日本の各都道府県の人口増減をグラフ化したYouTube動画などを見ながら、2012年くらいで総人口の増加が止まって、するするっと数字が減り始めて急降下しはじめる、そんなジェットコースターの発進直後のような状況にあるのを改めてよくわかって見てしまい、どうしても、この先には直滑降での人口急減しか見えていなくて悲しい感じになってしまいました。
そんなところでも、人、地方、ビジネスというものをつないで何らか生きていかなければならないわけですが、この、地方創生として人や雇用や産業や経済を呼び込むために使える資源が、なけなしの地方交付税を原資にした「税金」しかないというのが、非常に悲しいところです。
金を撒いても、金は育ちませんし、あんぐり口を開けて待っている地元の既得権者に吸収されて終わりなわけです。
しかしながら、技術の発展過程で流通や決済のシステムコストがますます下がっていく中、流通を含む産業を行い、例えば一農家だった方が、消費地である都市部へ出かけて販売するところまで一気通貫で行うことができるようになったり、フリマアプリでそのままダイレクト販売することができるようになっているという面もあります。
ようやく、日本人も、生まれ育ちとは関係なく、地方津々浦々の魅力を感じて、移住なり、短期滞在なりで訪れるというスタイル、いわば奈良時代からの班田収授の時代、そして鎌倉時代から延々と続く封建制からの完全脱却に一歩近づいたのかもしれません。
海外から移民を運んできて労働力に充てようとか言う前に、今いる日本人の活動範囲や活動領域、活動量自体を向上させて、死蔵している金融資産や民間資本を市場に出すように仕向けないといけません。
85歳の親が死んで、相続するのが60歳の子供では、いつまで経っても遺産は遺産として死蔵したままで、その間でぐるぐる回るだけで前向きな投資や消費には向かってきません。
その結果、日本は借金大国ですが、ため込んだ資産も膨大であるという、歪なバランスシート(貸借対照表)を持つ国になってしまいました。
さらに、これから先の世界においては、「労働」と「趣味」「自分のやりたいこと」が完全に対比されずに同じ方向を向くような考え方が主流になるのではないかと考えています。
例えば農業については、労働で行う場合は大規模な農地に農薬をバンバン撒いて、虫害や病気を完全にリスクコントロールして、品質の一定した作物を納期通りに大量生産して、一括して農業協同組合におろして価格交渉は政治家とつるんで圧力かけながら農協幹部がこれも一括して行う、という組織だった「大規模業務」であり、家庭菜園でやる趣味の農芸は、例えばトマトやきゅうりを自家栽培して、自分の家で食べるくらいに作ればOK、という住み分けがバッチリできていました。
その方が、社会全体として「効率的」であったのでしょう。
生産量を追わなければならない世の中では、このように効率化することも必要です。
しかし、世の中の人々の求めるニーズはそんな2方向に切り分けられるようなものではなくなってしまいました。
趣味でもプロを凌ぐ技を持つ人も出てきましたし、プロでも別の趣味を「生業」として稼ぐ人が増えたのです。
農家でラッパー、作曲家。
競馬の厩務員にして漫画家。
このようないろんな組み合わせで人は、より楽しく、よりアクティブに、いろいろな能力を社会全体でシェアして育ててその便益を皆で得る、そのような時代になりつつあります。
ですので、絶対人口が減るから一直線に国民の幸福の総体も減ってしまうということではないのです。
逆に、人口増加が激しかった時代は、小学校が足りない、中学校が足りない、大学が足りない、大学の医学部が足りない(都道府県に1つずつ以上設置せよ)、道路は全国津々浦々に通せ、食料自給率をあげよ、公共施設をどんどん作れ、といった、大箱の政策ばかりが推進されてきました。
これからの時代は、そんな建てても作っても維持管理費用ばかりかかる大箱政策ではなく、シェアリングやキャッシュレスといった、便利さ(各個人の時間を大切にする)を追求した政策になっていくでしょう。
その中で、ついに神社や寺院のお賽銭もキャッシュレスが進んでいくというキャッシュレス社会の到来を迎え、これまで、税金面での不透明さが拭えなかった現金決済の負の側面(要するに現金通貨を管理するという社会全体のコスト)も急速に解消に向かうのではないかと期待されます。
もちろん、集まった現金のお賽銭を銀行に預け入れる際には、特に窓口での硬貨の入金には手数料をかける銀行が増えてきており、その負担を減らすという目的もあるでしょうが、こうした、参拝行為に付随する無視できないコスト負担をなくせないか、減らせないか、まとめられないかという観点でもう少し社会全体の効用を下げずにコストを下げる運営はきっとできると思います。
おそらく、賽銭業界以上に、コスト負担の削減余地があるのが、教育業界でしょう。
江戸時代からの寺子屋時代から延々と続く、幼少期からのスクール型一斉受身授業、これを週5日の一番大切な午前9時から午後3時という、最も大切な時間に教室に詰め込んで行うというのは、教育の機会均等を実現するという意味では途中の到達点としてはよかったかもしれませんが、もはや令和の今では無駄の極地だと思います。
受け身の講義形式で行う授業は、YouTube動画と確認テストシステムに任せて、あとは小学校というリアルな場での人間同士のもっと活発なやりとりを行う場にしてもらえればと思います。
筆者が小学校をやるなら、学校全体を超高速Wifiで繋ぎ、講義カリキュラムはシラバスを与えて、児童個人個人の進捗を、個別の確認テストシステムで管理して、あとは体育や部活動、ディベートといったリアルな活動の場に変えていく、ということをやっていきたいと思います。
家庭科でままごとのような食事メニューを作るくらいなら、自分たちで給食室に入って給食も作ってみたらいいのです。
そのまま、実地に応用できる、家事スキルが身につきます。
ビルメン業者の筆者としましては、建物の維持管理業務だって、清掃の他にも、児童自身でできる点検項目などたくさんあります。
高架水槽や受水槽の清掃、エアコンの清掃なんかもやってみたらいいのです。
このように、「講義」といったインプットの学習については、ICT技術に任せて、人間は人間を直接教え導く実地訓練や語り合いなどに時間を使っていく方が、教育にしろ仕事(労働)現場にしろ、楽しくなっていくのではないかと考えています。
さて、キャッシュレス賽銭ですが、これは理論上どの法人でも、自然人でも、「投げ銭」を受け入れることができてくるわけで、もはやこうしたブログも、「運営資金ください」といってQRコードを貼り付けて、そして細々と運営資金をいただける、そのような世の中になるのかもしれません。
こうすれば、Google先生のアドセンスから細々と、本当にちょろちょろっとしかこぼれ落ちてこない配信広告収入(のおこぼれ)に縋(すが)らずとも生きていけるのではないかと思っているのです。
何も世界のデータを握って良いのはGoogleだけじゃないわけです。
同じ寄付なら、例えば政治献金なども、QRコードで徴収できる、そのような時代になることを大いに期待しております。
毎月些少ながら、雌伏の政治家や志ある若い人に、ほそぼそと寄付を続けております筆者からのコメントは以上です。
(2019年12月18日 水曜日)