ボランティア界隈でよくあると思うこと

いいことしているのにどうして振り向いてくれないの!

教育や福祉に関わっている、もしくは関わりたい人思う人の99%ぐらいは発達障害か境界型人格障害か精神分裂病のどれかにあてはまり、しかもそのほとんどが強い攻撃性を持ちしかも自覚がないと思っています。

その強い攻撃性を発露するために弱い相手や弱みを持つ相手を探してさまよい、そしてそうして弱いものゆえの攻撃性をお互いにぶつけあっているのではないでしょうか。

何年か前にカタリバのNHK放送を見たとき、まさにそのような感触を持ったのですが、その番組は、ベテランボランティアが新入りボランティアをいびってるシーンで、番組の意図としてはそれを「現場の厳しさ」として好意的な演出だったようだが、実際のところ単なるモラハラでしかありませんでした。

弱いものがたむろする場には人間性や人道への暴力やハラスメントがなぜかまかり通るようです。

不義理も頻発します。

どうしても約束を守らない人もいるし、貸したカネを返さない、連絡すら寄越さなくなるのも日常茶飯事です。

正義や倫理を広め機能させるのには、やはり強さがいるということなのでしょうか。

弱いものはいくら群れても秩序や正義を機能させることができません。

逆に言えばそうした弱者を痛めつけ利用するだけの団体はどれだけ社会に対して好意的な印象操作に成功していても、弱い人しか集まらないので決して社会全体に何かインパクトを与えることはないと思っています。

そういう集団に触れて取り込まれてしまうような人はいつでもごく少数だからだ。

すっかりそういうことに染まってしまった団体職員がよく言うセリフがあります。

「わたしたちがどうしてこんなに頑張っているのに、いいことをしているのに支援する人が増えないのか?」

この疑問の答えは簡単です。

いいことなんてしてないし、団体や経営陣の都合の立場の弱い学生や生徒におつしけているような集団は誰もが離れたがるからだ。

評判も上がりません。

よわいものほど大義を振りかざす点では、愛国とか叫んで声をからしてデモ行進してる奴も大体弱そうな奴だと思います。

こうした一部の攻撃的な弱者たちが起こす社会現象は近代でいえば共産主義運動が顕著でわかりやすくその端緒や経過、結果が詳細に記録されているので参考になります。

だいたい、弱い、経済的に弱者に追い詰められた社会的層(労働者階級と呼ばれた)が人生一発逆転で下剋上していいよ、それで暴力による秩序の破壊OKというのは思想的に破綻していますが、ソ連や中国ではまんまとそれが成功してしまいました。

また、日本でも3.11後に巨大化したNPO法制定や寄付控除法制化などに動いた一連の集団はこれによく似ているようです。

共産主義がどれほど猛威を振るおうともそれが救うとされた肝心の(生産的)農民や(都市の)労働者それが受け入れられたことは歴史上一度もないこともこれによく似ている。

むしろこうした層は、そういった社会運動のいつも最大の犠牲者となり続けてきたようです。

すなわち、人はいくら大義を振りかざしても強くなりません。

強くなったような気になってさらに弱くなり、人を傷つけることに罪の意識をどんどん薄れさせ、償いきれない罪を犯す方向に行くようです。

歴史がそれを証明しており、さきの大戦で皇国思想に染まり罪を重ねた旧帝国軍人もまたわかりやすい同じような例かもしれません。

弱さを克服するにはまず弱さを認め、分かりやすい教祖なんかにすがるのではなく、自ら罪を背負う覚悟で一つ一つ自分なりの考えと見識を世に問う行動と試行錯誤を繰り返すしかないわけです。

言い換えると、錯誤をしたくない、最初から正しいことをしたい、だから何か大きな正しそうなものに身をゆだねたい、そういう言動が弱さそのものなのだ。

そしてそういう弱さはそのまま、自分の選んだ教祖と相容れないことがらすぐに攻撃性につながるものです。

支援を期待したり不足を愚痴ってること自体が、本来的に求められる無償の愛や慈悲、ボランティア精神が疑われると思っています。

結局、小さなそのような貧民街でも金と名誉で、そんなのに付き合わされたくないなと紛れてやってきて全く同じことをやっているわけです。

無償の愛や慈悲なんて与えたり感じたりしたことがない、その存在を信じてないようなような連中こそ、こういうのにハマる傾向があると思います。

共産主義がその最たるものであり、極小カルト宗教のオウムとかもそうだと思います。いずれも大学時代にかけて色濃く影響を受けている集団を見ました。

これに対しては、拝金主義の方がまだずっと悪性度は低いと思っています。

以上