刑法第8問
2022年8月12日(金)
問題
甲は、Aから100万円を渡され、「Bから金を借りているので、これをBに返しに行って欲しい。Bは利子が付いて200万円だなどと言うかもしれないが、ひとまず、これを置いてきてくれればいいから。」などと依頼された。甲は、金額について折り合いがついていないようであることや、Bが血気盛んな性格であることから、自分が行ったとしても、けんか沙汰になるかもしれないと考え、気が進まなかったが、Aには日頃から面倒を見てもらっていたため、これを了承した。
甲は、万が一Bに襲われたときに備えて、護身用の伸張式の警棒(アルミ製、長さ約 21センチメートル)を携帯することにした。甲がB方に着くと、Bは、応接室へと甲を通した。甲が、「Aさんから100万円を預かってきたので、受け取って欲しい。」と伝えたところ、Bは、突如として憤慨し、「これっぽっちの金を受け取れっていうのか。Aの前にお前を殺してやろうか。」などと叫び、テーブルに置かれたガラス製の灰皿をつかみ、甲の目の前で頭上まで持ち上げた。甲は、とっさに身の危険を感じ、これを避けようとするとともに、AB間のトラブルとは無関係の甲に対して怒号するBに腹を立てたため、用意していた警棒を取り出し、Bの顔面を殴打した。Bは、その場に倒れこみ、頭部を強く打ち、全治約1か月を要する頭頂部打撲挫創の傷害を負った。甲の罪責について、論じなさい(特別法違反の点を除く。)。
解答
1 甲が警棒でBの顔面を殴打し、全治約1か月を要する頭頂部打撲挫創の傷害を負わせた行為は、人の生理的機能を害するものであるから、 「人の身体を傷害した」といえ、傷害罪(204条)の構成要件に該当する。
2 もっとも、甲は、Bがテーブルに置かれたガラス製の灰皿をつかみ、頭上まで持ち上げたことに対応して、上記行為をしている(以下「本件 行為」という。)。そのため、正当防衛(36条1項)が成立しないか。
(1)まず、「急迫」(36条1項)とは法益の侵害が現に存在しているか、又は間近に押し迫っていることをいうから、侵害の急迫性が認められるためには、法益侵害の危険が具体的に切迫していることが必要である。確かに、Bは、テーブルに置かれたガラス製の灰皿をつかみ、頭上まで持ち上げたにすぎず、まだ攻撃を開始していない。しかし、これを振り下ろせば、甲の身体に危害を加えることができる状態であるから、甲の身体の安全を害する危険が具体的に切迫しているといえる。したがって、甲の身体の安全という「権利」に対する「急迫不正の 侵害」があるといえそうである。もっとも、甲は、けんか沙汰になるかもしれないと思い、警棒を携帯している。このように侵害を予期している場合でも「急迫」性の要件を満たすか。36条は、急迫不正の侵害という緊急状況の下で公的機関による法的保護を求めることが期待できないときに、侵害を排除するための私人による対抗行為を例外的に許容したものである。したがって、行為者が侵害を予期した上で対抗行為に及んだ場合、侵害の急迫性の要件については、侵害を予期していたことから、直ち にこれが失われると解すべきではなく、対抗行為に先行する事情を含めた行為全般の状況に照らして検討すべきである。具体的には、事案に応じ、行為者と相手方との従前の関係。予期された侵害の内容、侵害の予別の程度、侵害回避の容易性、侵害場所に出向く必要性侵害、侵害場所にとどまる相当性、対抗行為の準備の状況(特に、凶器の準備の有無や準備した凶器の性状等)、実際の侵害行為の内容と予期された侵害との異同、行為者が侵害に臨んだ状況及びその際の意思内容等を考慮し、行為者がその機会を利用し積極的に相手方に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだときなど、前記のような36条の趣旨に照らし許容されるものとはいえない場合には、侵害の急迫性の要件を充たさないものというべきである。本間では甲は、けんか沙汰になるかもしれないと考え、侵害を予期しつつ、護身用の伸張式の警棒を携帯しているものの、万が一Bに襲われたときに備えているにすぎない。また、Bのもとに出向いたのは、日ごろから面倒を見てもらっているAからBに対して借金の返済を頼まれたからであり、侵害場所に出向く必要性もあった。このような先行事情を含めた本件行為全般の状況に照らすと、甲の 本件行為は、36条の趣旨に照らし許容されるものと認められ、侵害の急迫性の要件を充たす。したがって、「急迫」性の要件を満たすから、「急迫不正の侵害」があるといえる。
(2) ア 次に、甲は、とっさに身の危険を感じるとともに、AB間のトラブルとは無関係の甲に対して怒号するBに腹を立てたため、上記行為に及んでいる。そのため、防衛の意思を欠き、「防衛するため」とはいえないのではないか。防衛の意思の要否につき争いあるも、行為の社会的相当性を判断するためには行為者の主観面も考慮に入れるべきであるし、条文上も「防衛するため」とされているから、これを必要と解すべきである。
イ それでは、防衛の意思をどのような内容と解すべきか。防衛行為は事の性質上、興奮・逆上して反射的になされることが多く、積極的な防衛の動機を要求するべきではない。そうだとすれば、防衛行為時の意思内容としては、侵害の認識と侵害に対応する意思があれば足り、防衛の意思と攻撃の意思とが併存している場合 の行為は、必ずしも防衛の意思を欠くものではないと解すべきである。本問では、甲は、Bに腹を立てて攻撃をしているため、攻撃の意思を有しているものの、Bの攻撃に対して、とっさに身の危険を感じて対応しており、侵害の認識と侵害に対応する意思がある。したがって、防衛の意思が認められる。よって、「防衛するため」といえる。
(3) 最後に、「やむを得ずにした行為」については、正当防衛の場合、防衛者とその相手方とは「正対不正」の関係にあるから、必ずしも防衛行為が唯一の侵害を回避する方法であることは要求されないし、 厳格な法益の権衡も要求されない。したがって、反撃行為自体が防衛手段としての相当性を満たしていれば「やむを得ずにした行為」といってよい。具体的には、武器対等の原則を基本としつつも、攻撃者と防衛行為者の性別、年齢、力量等をも考慮して、社会通念上許容される行為か否か判断する。本問では、甲の反撃は、アルミ製の長さ約21センチメートルの警棒という危険な道具を用いて、頭部という人間の枢要部を殴打してい る。もっとも、Bの攻撃は、ガラス製の灰皿を振り下ろすというものであり、当たり所が悪ければ、重大な結果が生じ得る危険な行為であるから、武器対等の原則を満たすものである。そのため、他に特段の事情がない限り、社会通念上許容される行為であるといえる。本問では特段の事情は認められないから、防衛手段としての相当性を満たしており、「やむを得ずにした行為」といえる。
3 以上より、甲の行為に正当防衛が成立するため、甲は不可罰である。
以上