真の若者言葉
なぜ年配の方はチャットする時に文末に「。」をつける人が多いのですか?若者からしたら、「怒ってるのかな?」と思ってしまいます。
またまたぁ。真の若者は読点すら使わないし自分のことわざわざ”若者”とか呼ばんのやであれはですね、今の若者(というか学生というか子供)は日々触れるコミュケーション用の言語がSNS内のフランクな文章しかないことに起因しています。本も読まず、社会との接点もなく、他人との関わりはLINEとかDMとかネトゲのチャットが基本なので、そういった空間では敬語どころか正確な表記すら省略されます。了解なんて「りょ」で充分であり、正確な真意よりも即時性が優先されるんですね。伝える感情なんてアリなのかナシなのか程度でいいので、細かいニュアンスは返事のタイミングとか周辺情報から勝手に読み取れというハイコンテクストの極みみたいな世界です。アフリカのスワヒリ語は全ての挨拶をジャンボで済ませちゃうみたいな話で、単純化された社会においては高度な意思疎通は必要とされませんし、むしろノイズと扱われますし、そんな部外者は排除の対象となります。だからこそ、長文はむしろ無粋だし、相手に気を許してないという根拠にすらなってしまうのです。そんな感覚世界の住人からしたら、わざわざ長々とした文章を送る(送られる)ようなタイミングはわざわざ改まって懇切丁寧に真意を伝えなければならないような状況だけです。要は、句点や読点を使う文章ってのは誰かの不幸か、怒られる時くらいにしか使わないんですよ。オヤジが急に改まって「そこに座りなさい」とか言い出したら何かお説教されるのかしらと思うでしょ?この「改まって」に該当するのが句読点なんです。「なぜ使うか」については説明不要かと思いますが、当然それが現代の日本語の文法だからですよね。ただし、最新の砕けた若者言葉では既に口語体ですらフォーマルな扱いになっているため、略語と絵文字とスタンプでコミュニケーションを図る世界においては、句読点すら他人行儀に見えるってことなんでしょうね。もちろん関係性の近い狭い社会の中だけで生きているわけではない我々大人は、そんなローカルルールにわざわざ従う必要はないわけです。むしろ子供の相手をするなら「ちょっとそこに座りなさい。」と堂々と言える厳格な大人でありたいですね。