人生はやり直せない
考える前に身体動かせ
よく、筆者のようないい中年になった人から、同じ筆者のような中年に人生をやり直すには遅すぎますか的な話を受けることがありますが、そんなのできるわけないでしょう。綺麗事を抜きにして言うと、いい年して中年の年齢で「人生やり直したい(受け身)」とかいつまでも思い始めるっていうかずっと思っている人って、自分の中にある親や居心地良い環境への依存心をほぼ100%自覚してないんですよね。モヤモヤした気持ちの言語化が上手くはなく、頭も良くなく自分を鍛えて来なかった、しかも何十年間も不充分であったがゆえに、だいたいみんな「やり直したい」と思い始めた段階では、十分狂気的な状況にいっちゃってます。やり直すというのは、イコール破壊と再構築であり、ゴールの再設定に始まって計画とその着実な進行、程度や加減が、すごく大事じゃないですか。それまでの人生において守るべきものを見定め守ってきたからこそ、揺るがない責任感がベースにあり、揺るがないモチベーションが動力源となっていて、結果何らかの利益や心の中の達成感などのいい意味での報酬が得られるわけです。言語化できない人って、これが従来の人生で、全く主体的に能動的に出来ずやりがいとか達成感とか自己満足とかいった、得難い報酬を得られてなかったんです。得難い報酬というのは、成功体験ももちろん含みますが、より大切なのは、やってみたけどうまく行かなかったという失敗体験の方こそ重要なんです。うまく出来なかったからこそはっちゃけて、「やり方よく分かんないけどやりたい」と孤独なままで考えて、とりあえず破壊しようとして爆破したり、誇大妄想であり得ないようなもの建てちゃうというのは、綺麗ごとのお花畑の妄想です。本当は、成功どころか失敗すらしてきていない、その前提としての挑戦、その挑戦するための目標設定、目標設定に不可欠な熱意や自分自身の把握や自分との会話を徹底的に避けてきた結果がその中年になっただけの今なので、仕方がないのです。お世辞は抜きで気兼ねなく、忌憚なく率直に申し上げて、あなたは何にも為してこなかった。だからやり直すとかそういうことではなく、やった結果が決定的に虚無的に何もないから、だから焦っているんですよね。結果、世に言うヤバい人、悪いケースだと不審者デビューしちゃう事が多いです。計画したつもりでも、客観的には全く計画的じゃなかったり、具体的には変な起業をしようとしたり変な投資やビジネスにはまったり、変な異性に依存したり、変な宗教やイデオロギー、トンデモ党派的主張にハマったりと、急にはっちゃけて更にハイレベルな迷子というか社会的迷惑存在になりやすい、そのように自己分析して下さい。自分で全く操縦できない劣等感が肥大しており、その変な活動への主な動力源になってますからね。適度な劣等感というのも人間要素として非常に重要であり、全てうまく行く大丈夫と叫べばそれでOK的な教義は大嫌いなわたしですら、そのような肥大しきった劣等感だけを後生大事に育ててしまって本当にご愁傷さまという感じです。そういうのが、こうした勢力の何よりの養分となっていくわけです。「このままでは何者にもなれない」とか。「実年齢と精神年齢のギャップを感じる」とか。「理想と現実が苦しい」とか。「社会から隔絶されてる、置いて行かれてる」とか。そういう感覚から逃れたいがために「何とかしたい、やり直したい」と言語化される事がかなり多いです。しかし、そんなの思う前に、家の掃除や片づけ、不要なものの断捨離から始めたほうがいいです。断捨離には、いつのまにか口に入れてるジャンクフードや清涼飲料水という名前の砂糖水、コーヒーという名で呼ぶのは恥ずかしい単なる白いだけの悪性油脂肪分モリモリの紙コップ入りの飲料とはとても呼べない代物(なんとかバックス)から離れて、たるんだ身体を少しでも引き締めることから始めたらいかがでしょうか。道は二択あって、まず、親離れができればけっこうその根本的な欠落感や劣等感って埋まります。うまく言語化できない「なんかやり直したい」も言わなくなります。親が死んでも自分の足でなんとか歩いていける。でももう一択をとって、親に精神的依存したままだと、いくら本人なりの『人生やり直すための行動』に取り組んだとしても、実際あまり心満たされてないみたいですね。親に死なれるとさらに支柱を失って、ガックリ折れていらっしゃいます。個人的には、「中年ニートの人生やり直せますか?」って聞かれ、質問者が男性なら「ちなみにお母さんはご存命ですか?」って聞き返します。生きてそうやなと思いながら。女性の方もまあ生きてそう。で、綺麗事は抜きで「(もうそれ聞いてる時点で受け身よね?自分で決めないのが不幸の根幹よな」って胸の内で思うけど、「何があったのですか」って詳しく聞きます。「初めからって、なに、どこから?」って。そんでいちおう医師に診てもらう事を勧めるのと、セラピストを紹介します。「何歳からでもやり直せますよ!」とかただ言う人の気持ちも分かりますけど。けどさあ、いくらなんでもよ。前例のないたった一度の人生で何十年も迷子やって、疲れちゃって分かんなくなった中年のかたの、切なる悩みですよ。明日から保育園幼稚園始まる小さい子に「保育園幼稚園ってたのしい?」って聞かれて「あなたなら大丈夫きっとたのしいよ」って励ますノリとはやっぱり違うと思うんですよね。いかんせん一人ぼっちで迷子になり過ぎたから「中年になってしまったけど初めからやり直すには遅すぎますか?」とか、たぶんこのまま更に迷子になって傷深めそうな事を言ってるわけじゃないですか。現実的に。現実の中年、繊細なプライド。茫漠とした何十年規模の熟成された思い、迷い、言葉にならない孤独な苦しみ。砂漠でのたった少しの方向性の狂いが、長い年月をかけて途方もない過ちへと広がってしまい、ようやくそれに気付いてしまったような感覚。なんじゃないのか?詳しくは知らんけど、中年の「初めからやり直したい」ってなんかヤバい事を言い出す人に「やり直せるよ!」とだけ言って終わりは、いくらなんでも残酷なんじゃないですかね。個人的に「そういう人に必要なのって、まず自分の状況の把握(客観的医学的な判断)とか、自立を助けてくれて本音を言い合ってくれる友達との時間とか、孤独にさせないプロにかかって人間存在への信頼を心の基礎部分に形作る事とか、そういう事じゃね?」って思う次第です。そういう意味での初歩からやり直すなら、中年、まだまだやり直せると私は個人的に思います。 まだ死なないから。親という支柱をいずれ喪っても、誰かと助け合って生きていけるような自信が持てれば、だいぶ変わると思うんですよ。いろんなところに少しずつ依存する。そして、究極には、自分自身と会話して、自分はこれでいいんだという軸を確立することが最高のやり直し、というところになるでしょうね。結局、「やり直しなどという破壊と再構築は自立してからやるべき事だよ。何も積み上げた実績や自信が無いなら最初からやり直そうとしたって同じところグルグルするだけよ」に尽きますが、そういうこと言う前に、少しは早起きして便所掃除と風呂掃除、それから床磨きと台所の整理整頓、自炊して自分でご飯作って不味くても食べてみて、片付けまでしてゴミも自分で捨ててみて身体動かす、ということから始めることを勧めます。身体と心は繋がっていまして、自然に身体を動かしておくと頭も回り始めて、自分がいかに物事を知らないまま年を喰ってしまったのかという真っ当な焦りに変わって、やっぱり勉強したいな、勉強は楽しいなとか思えて行動と考えが次第に良い方向に変わっていくということを筆者が強く保証します。生まれ変わることなどできない。今の自分のまま、これから強くなるしかないのです。
この駄文を、早朝起きた勢いで20分程度で書けるようになるくらいには、早起きと掃除の効用はございます。
以上