「死」について
「死」についてガチンコで向き合って考えてみた話です
おはようございます。
2020年2月の休日の今日は、死ぬということについてガチンコで向き合って考えてみたという話をしたいと思います。
といっても、筆者の自宅の近くにある商業施設の中の蔦屋書店(アルファベットではない、いわゆるスタバとかが併設されているもので、筆者としてはあまりゆっくりとはできないので、本当はザ・書店のような昔ながらの昭和な書店が好きなのですが)で、ベストセラーとして平積みされていたイェール大学教授のビリー・ケリガン先生という人のDEATHという講義に関する本が和訳されて出ていたのを少しばかり読んだだけなのですが、ちょっと面白いと感じた個人的知見が得られたので、今回はそれを共有しておきたいと思います。
死ぬのは嫌だなと思うことは多いと思います。
しかしながら、未知の世界のくせに、死については確実に、自分にも訪れるものだということはなんとなくわかっています。
ちなみに、「死ななくてもいけるんじゃないか」と思ってしまったあのキングダム、秦の始皇帝はあらゆる手段を試して不老不死を目指しましたが、逆に体に良いとされた水銀を丸薬よろしく呑みまくった挙句に、逆に命を縮めて全国行幸中に命を落としたと一説には言われています。
これでは、死なない努力をしただけ無駄、ということになってしまいます。
それでは、逆に死によって、自分の人生が、きっちり漫画のタイトルのように完結する、と考えればいかがでしょうか。
つまり、生きている間はずっとβ版(ベータ版)であって、完成版として納品するのは死んだ瞬間、と考えるのです。
自分の人生を丸ごと社会に、世界に対して納品する、そこから手を入れることはもはや自分自身ではできない、後世の人々に委ねるしかない、というのはとても安心するような感じもします。
背筋が伸びるような感じもします。
こうしたところから、原始的な宗教から現代の宗教までも、こうした命の連続や約束の地といった考え方をしますが、端的に、自分自身という作品を完成させる瞬間(そこからは手入れできない)が死ということになるとすれば、早いか遅いか、どういう死に方に至ろうが、「それまでの人生」「今生きている瞬間」の方がはるかに大切だと思うようにならないかなと思いました。
これぞ、死に向き合うということかと思ったわけです。
今死んで完成品として納品できるか自分の人生?
と考えると、やはりやり残したことや、これはやっておきたいと思うことがあるのではないかと思うのです。
逆に、人生いろいろあったがやり切った!という感慨をもって死ねるのであれば、作品を納品して旅立てるのであれば、これもまた幸せなことではないかと思うわけです。
死というのは、実は自分のことについては未知であっても、他人や世界にとってみれば、それこそ毎瞬間毎秒起こっていることです。
あの有名人が亡くなった、偉人が召された、不幸な事故や病気があった、というような話は毎日でも聞きますし、つまり、「死」は総体としてはなんら特別なものではなく、万人や世界レベルにおいては、単なる日常でありますが、それが個人や自分のこととなると途端に恐ろしくなるものなのです。
しかしながら、冷静に考えてみますと、そこは、例えば自分一人がインフルエンザにかかって一週間かそこら会社をあけても、別に自分を除いたメンバーで会社の業務や会議は普通に回っていきますし、世の中全体レベルにしてはほとんど変わらず日常が流れるということを考えてみても、あまり死ぬのを特別視して怖がりながら恐る恐る毎日を過ごすのは得策ではない、ということも言えそうです。
人生はどうしても終わりがぼんやりとしていて、それでいて唐突に終わるようにも思われますが、いずれ来るその時を自らの人生の完成だと考えて、しっかり納期を守って納品したいとも考えています。
こんな感じで今日の記事を終わります。
こちらからは以上です。
(2020年2月10日 月曜日)