(2017/07/16)聖徳太子は実在しなかったという説が有力になりつつあるという驚きの話
おはようございます。
2017年7月の熱い日に歴史の熱い記事です。
聖徳太子といえば、少し前までの昭和時代には一万円札や五千円札の表紙も飾っていた日本人にとってはおなじみの存在でした。
筆者も小学校のときに、聖徳太子のひみつという歴史読本を読み、聖徳太子はその当時の小学生の間では、織田信長豊臣秀吉徳川家康卑弥呼についで、5番目に有名で好きな歴史上の人物としてとらえられているという内容に納得し、その後も過ごして参りました。
しかし、現在の歴史の教科書では、聖徳太子についての実在性に疑義が生じており、いわゆる聖徳太子(伝厩戸皇子)というふうに記載しているのが通常になりつつあるのです。
皇族である厩戸皇子が実在したのは確かなようなのですが、その人物が、ものすごい業績を残した天才「聖徳太子」という人と同一の人なのか、それが疑問視されているのです。
そして、厩戸皇子の実績で確実だと言えるのは十七条憲法と冠位十二階のみです。
これは、中国の歴史書である「隋書」にも記載されている事柄なのではありますが、その隋書には、推古天皇のことも厩戸皇子のことも一切記載されていません。
日本書紀にも厩戸皇子のことは記載されていないのです。
確かに、厩戸皇子は斑鳩宮に住み、法隆寺を建てたのかもしれません。
しかし、肝心の厩戸皇子が聖徳太子という人であった、というのはどこにも書かれていないのです。
聖徳太子は実在しなかったという大胆な仮説を提示します
さて、日本書紀を編纂したのは藤原氏(藤原不比等)の一族です。
この一族からすれば、蘇我氏が皇族の力を簒奪して悪さをしたので誅殺した自身の先祖である中臣鎌足と中大兄皇子が正義でなければなりません。
ただし、歴史の業績は相対的なものであり、最終的に勝ち残った藤原氏に絶対的な正義があったわけではないと思うのです。
そして、一旦は蘇我氏のもとで、さまざまな改革事業が行われ、その成果を無視できなかった藤原氏は、一旦その蘇我氏の業績を仮託する相手として、蘇我氏の一族と縁が非常に深いけれどもバリバリの皇族である厩戸皇子を「聖徳太子」として創作し、これをことさらに礼賛し、蘇我氏の活躍や業績をいったんこの「皇族」に吸い取っておきながら、蘇我入鹿(本来の改革者であり実力者)が聖徳太子の子供らを滅亡に追い込むという嘘に嘘を重ねたのではないかということなのです。
もともと創作であった聖徳太子ですので、都合の良い時には消えてもらわなければなりませんし、その消えた原因が罪をなすりつけたい蘇我氏ということにすれば殊のほか都合がよいということになるのです。
聖徳太子は、生後間も無く言葉を発して、凄まじい天才児であったこと、10人の訴えを同時に聞き分ける耳と頭脳を持っていたことなどといった「逸話」も、実は中国の同様の史書から転用剽窃、有り体にいえばパクった話であることが間違いないことからも、ありとあらゆる手段で聖徳太子を礼賛する日本書紀の記述こそ怪しいと考えなければならないのです。
怪しい、というのはこれほどまでに蘇我氏の業績を貶め蘇我入鹿を悪役に仕立て上げたのは、実は中大兄皇子と中臣鎌足側は当初の反動勢力であり、彼らからすればクーデターに近い形で政権を奪取したという事実を隠して蘇我氏の業績を我が物にして都合のよい史実を作る必要があったということです。
かくして、蘇我入鹿は大悪人となり、それを誅殺した皇族である中大兄皇子は天皇となり、簒奪は完了したと思われました。
しかし、壬申の乱という日本を揺るがす大乱ののち、天皇位は天武天皇系に奪われ、それを取り返すのにまた数十年の時が必要になります。
因果は巡るというところでしょうか。
筆者が小学生の時より歴史学は格段に進歩しています。
いくつになっても好奇心を失わないようにしたいものです。
一万円札には縁がない筆者からは以上です。
(平成29年7月16日 日曜日)