政治によって生きる人々

「政治によって生きる人々」を厳しく抑制して「政治のために生きる人々」を支援すべき

横浜市長選挙が終わりました。

あらためて、「政治によって生きる人々」を厳しく抑制して「政治のために生きる人々」を支援すべきだと思いましたので重ねて書きたいと思います。

2021年8月22日(日)、小此木八郎氏が地元横浜市長選挙に落選しました。現職の国会議員であり、加えて国家公安委員長という現職大臣、そして親の代から続く強固な地盤、それから現職内閣総理大臣菅義偉さんの全面支援という、総力を上げて挑んだ選挙に負けました。政界を引退とのこと、この引き際のみ、潔いというところです。

勝ったのは、野党候補の山中竹春氏ですが、こちらも、パワハラ疑惑、出身の横浜市立大学における不透明な業者へのゆすり、また医師でもなく感染症の専門家でもない、医療データの解析屋に過ぎないところの能力詐称疑惑、加えて海外大学在籍の嘘であったという疑惑など、極めていわくつきの人物です。

早晩、市政において追及され、進退窮まるでしょう。

このように、政治家というものが、政治によって生きることを続けたなれの果てが上記のような状況ということになりましょうか。

政治家に自分だけが社会問題解決に参画しているという選民意識があるとすれば残念

まだあります。こうした政治家や社会運動家というような方々は、国や地方公共団体の補助金が大好きです。

あまつさえ、一般取引社会に生きる、一般企業や団体や個人に対してまでも寄付や無償の貢献を要求してきます。

自分たちは政治の世界で、社会的に良いことをやっているのだから、優遇されて当たり前といった間違ったおごりがあるから、このようなさもしいふるまいができるのではないかと勘ぐってしまいます。

だったら当社も寄付が欲しいです。

当社だって、限界集落や離島の教育問題や雇用問題を解決したいと真剣に考えて解決策を実践しています。

補助金の原資は税金であり、もちろん一般取引経済社会における市場経済では救えない分野にヒト・モノ・カネを投入すること自体は正しいですが、ともすると、政治家や社会運動や慈善運動の「ために生きる」人々、よりも、政治や社会運動や慈善運動「によって生きる」人々のほうが多くなっているのではないか、という疑問なしとしません。

この2つの区分は、政治家や官僚といった公僕や公務員といわれる人々に共通しており、同様に、「政治のために生きる」純粋政治家と、「政治によって生きる」職業政治家の2つに分けることができます。

もちろん、政治「のために」生きるやつのほうがかっこよくて憧れて評判も良いのでしょうが、もし、政治「によって」生きる者を切り捨ててしまうと、別の収益源や課金元といったケツモチやスポンサーを抱えている金持ちや事業家、投資家しか、政治に参加できない金権政治になってしまうのです。

そうすると社会不安が巻き起こり、悪くすれば革命という暴力による支配に逆戻りです。

政治によって生きる人より政治のために生きる人々を増やそう

ですので、純粋政治家、職業政治家にかかわらず、立憲民主主義国家においては、カネや事業規模ではなく人が人を選ぶという選挙制度というもので選出されるという建前を人類は編み出したのです。

そして、これまで諸侯が領土をより上位の権力(王や皇帝など)から封じてもらっていた封建社会が次第に衰退し、国家権力が中央集権に向かっていく中で、昔の聖職者や宮廷貴族、ブルジョワ(フランス語)、ジェントリ(英語)といった名望家が集まって行う賢人政治から、政治「によって」生きる専門教育や試験(中国の科挙や日本の国家上級職試験)の選抜によって鍛えられたところの、いわゆる勉強ができて教養のある連中が、優秀な「行政幹部」として政治を補佐し重用されはじめます。

この行政幹部の究極の形態が、いわゆる官僚制として定義されるのです。

選挙で国民に選ばれるという建前(セレモニー)を通過した国会議員が、政治の大まかな方針を決めて、そして高等文官試験のような難しい試験を突破した優秀な官僚たちが、その方針を法令に落として忠実に実行する、これが現在の多くの国々の国家運営の仕組みとなっているわけです(マックス・ウェーバーによる)。

広い意味での社会問題解決や宗教、についても、ここで申し上げた「政治」をそっくりそのまま「社会運動」「宗教」に置き換えても成り立つように思えませんでしょうか。

社会問題解決活動、とは、社会問題解決活動「のために」生きる者によってのみ構成されたほうがかっこいいと思うのは望みすぎでしょうか。

自分の手に職を持って、自分で稼いで自分のメシは自分で稼いで食ってから、そうしながら社会問題解決活動のために生きる、政治のために生きるというのはできないものでしょうか。筆者は全くできると考えます。

社会問題解決活動「によって」生きる、補助金サルベージャー、寄付のハイエナのような方々の振る舞いやなさりようを拝見するたび、その意を強く致します。

こういったところが、一般取引社会に生き、事業を回して雇用を生んで売上を立て、事業税や消費税などの税金や社会保険料を支払い頑張っている一般企業に対して、自分たちは社会問題解決のための高尚な活動をやっている(だから儲かっているお前らは寄付よこせ)というよくわからないマウンティングや奢りのように感じてしまう原因なのかもしれません。

当社としては、社会問題の解決のためにできることとして、誠実に業務に向き合い、きっちり働いて売上成果を出して、雇用を生み税金や社会保険料を納めることだと信じてやみません。

以上、当社個別のひとつの感想でした。異論ご批判、議論の展開を期待しております。

政治のために生きるために、自分の食い扶持は自分で稼ぐ。

そのような当たり前が通用する世の中をつくるために頑張っていこうと思います。

地方創生とか地方活性化という「総論」というものの空虚な姿について好きに書いてみたいと思います(2020/05/06)

▼2019年(令和元年)5月の筆者提供の地方創生、地方活性化が叫ばれることにおける厳しめの私見を述べるというブログ配信記事です。日本は本格的な人口減少の社会に入りま…

(2020/02/02)日本の空港の名称(愛称)を調べてみると大変面白く日本の文化論まで展開できると思ったお話をします

おはようございます。 2020年2月はじめの、改めて令和2年の残り11ヶ月を前向きに生きるための記事です。 LGBT🏳️‍🌈の「性の多様性」と同じ…

ヤマト運輸が個人向け宅急便事業を始めた物語

宅配ならヤマト運輸を推しています 当社(というか筆者)では、使う配送サービスはヤマト運輸一本と決まっているのですが、これは、かつて魔女の宅急便というアニメ作品に…