器の大きい人とは

人の器は何で決まりますか?

人の器は何で決まるか。それは、「自分の身を削らずに他人に与えられるか?」だと思います。
あくまで自分には他人に与えられるだけの余裕がある「これくらいはへっちゃら!」な人ですね。
例えばこの人。

惜しみなく与えることができる

この人(マン?)は、身を削りまくっているようにも見えますが、彼には「ジャムおじさんが顔はいくらでも作ってくれるから、ちょっとくらいは全然平気さ!それよりも、今お腹が減っているキミを助けたい」という精神的な盤石感と安心感があります。
「それ、もらっていいの?」という不安と無縁なので、ありがたく助けてもらえます。だけども、食べて元気になったら自分自身で動き始めないといけない、いつも助けてもらってばかりではだめだと自然に気付かされる、そういう自立心というか自律の心をも育て、もらう方の誇りを失わせないように絶妙に配慮することができます。
こういうのが器の大きい人だと思います(事例は、マン、ですが)。
そして、このような人(しつこいですが、事例は、マン、です)は、色んな人に支えられて自分が在る、ということも知っています。
ジャムおじさんと自身の関係がそうであるように「人は皆支え合って助け合って生きている。一人では生きてゆけない」ということもちゃんと理解しています。
自分の弱さや限界も知った上での行動を取ることができます。その中で最良最善の行動を取ることができる。
自分の働きが人々の集団、いわゆる「社会」でどのように作用しているのか?
「国家」によい影響をあたえているのだろうか。
「世界」に通用する人格であるのか。何よりも、自分自身が、そういう自分を納得して操縦、コントロールし、励まし続けているか。
挑戦し、感謝し、希望を持って進んでいるか。
このような世界観、価値観を常に胸に持ち、毎日の細かいところを整えていくことができる者。
これをわかっているのが、筆者の考える「器の大きい人」です。

ジャムおじさんこそ黒幕、という話でした。
バイキンマンも、本気で彼を潰したいなら、ジャム工場を攻撃すべきです。これが戦略的思考、ということになります。