政治によって生きる人々を厳しく抑制すべき
自分だけが社会問題解決に参画しているという選民意識が芽生えているとすれば残念だと思った建前と本音の話
▼事業を通じて社会問題解決に邁進する!というような社会運動が、コロナ下における世界でも大きくなってきたように感じています。そして、環境問題に取り組む団体に対して、電気料金の1%を寄付しますという触れ込みで顧客開拓を行うこのような会社(ハチドリ電力等)も出てきています。曰く、あなたの電気代1%で自然エネルギー発電所を新設する、これは、自然エネルギーの占める割合はわずか18%である日本において、既にあるものを使うだけでなく、自然エネルギーの発電所を実際に増やしていくことがCO2削減には大切だと謳われています。
▼気候変動に顧客側ができることの一つとして、この新電力会社(ハチドリ電力)に切り替えた人の声を拾ってみましたが、これ、当社のような立場からは、電気代1%分は別枠でこちら側(顧客側)で寄付でも何でもするから、電気代を99%にしてくれんかなあと思ってしまうのです。この会社のような界隈の方々に対する、一般経済社会に生きる当社のような立場のものとすれば、俺たちだけが、社会問題解決に邁進していてエライ!というおごりをどうしても感じてしまうのです。当社だったら、99%の値段設定にして、そして1%は利用者に還元して利用者側の判断に委ねるか、オプションとして1%余計にもらって代わりに取りまとめて寄付するかの2つのプランを提示するかな、と思うのです。
▼さらに、この自然由来エネルギー100%を実現!と謳っていますが、電力は、発電されたものをそのまま使えるわけではなく、既存大手電力会社の膨大なメンテナンスの手間をかけた送電線設備に乗っかっているだけに過ぎない新電力会社だけが社会問題解決に邁進しているわけではありません。当社は既存大手電力会社の肩を持つわけではありませんが、既存大手電力会社が保有する送電線設備は、日々の膨大なメンテナンス人員のたゆまぬ努力によって維持されており、その人件費や保険料、設備維持管理の部材や建設修繕コストをすべて取り込んだ料金設定に本当になっているのか、そこはきっちりと示していただきたいとも思っています。大手電力会社の価格を比較しながら安いと謳いながら、その実、大手電力会社の送電線設備等のインフラやノウハウにタダ乗りしているのであればこれは公正な取引ではありません。それなくして、大手電力会社より安い!とだけただ宣伝するのは一方的です。
電気自動車は良いことだらけなのか
▼電気自動車は環境に良い!と飛びついて、充電器(バッテリー)である重いリチウムイオン電池を作って設置するのにどれくらいの環境負荷が本当にかかるのかを全く意識しない方々と同じではないかと思ってしまいます。そういうところが、こうした社会運動家という方々に、一般取引経済社会で生きる当社のような立場の者が、少々心情的な立ち位置を異なるところに置いてしまう原因なのかもしれません。大手電力会社が運用している大型火力発電所の石油エネルギー効率も日々刻々と進化しており、1%の寄付で作る自然由来のエネルギー!と謳われる今ひとつ発電効率に課題が多い、風力発電所や太陽光発電所に比して決して劣っているとは思えません。風が吹いても回らない風力発電所なんて、ただのでかい彫刻に過ぎません。個人の感想ですが。
▼まだあります。こうした社会運動家というような方々は、国や地方公共団体の補助金が大好きです。あまつさえ、一般取引社会に生きる、一般企業や団体や個人に対してまでも寄付を要求してきます。自分たちは社会的に良いことをやっているのだから、優遇されて当たり前といった間違ったおごりがあるから、このようなさもしいふるまいができるのではないかと勘ぐってしまいます。だったら当社も寄付が欲しいです。当社だって、限界集落や離島の教育問題や雇用問題を解決したいと真剣に考えています。補助金の原資は税金であり、もちろん一般取引経済社会における市場経済では救えない分野にヒト・モノ・カネを投入すること自体は正しいですが、ともすると、社会運動や慈善運動の「ために生きる」人々、よりも、社会運動や慈善運動「によって生きる」人々のほうが多くなっているのではないか、という疑問なしとしません。この2つの区分は、政治家や官僚といった公僕や公務員といわれる人々にも共通しており、同様に、「政治のために生きる」純粋政治家と、「政治によって生きる」職業政治家の2つに分けることができます。もちろん、政治「のために」生きるやつのほうがかっこよくて憧れて評判も良いのでしょうが、もし、政治「によって」生きる者を切り捨ててしまうと、別の収益源や課金元といったケツモチやスポンサーを抱えている金持ちや事業家、投資家しか、政治に参加できない金権政治になってしまうのです。そうすると社会不安が巻き起こり、悪くすれば革命という暴力による支配に逆戻りです。
政治のために生きる人々
▼ですので、純粋政治家、職業政治家にかかわらず、立憲民主主義国家においては、カネや事業規模ではなく人が人を選ぶという選挙制度というもので選出されるという建前を人類は編み出したのです。そして、これまで諸侯が領土をより上位の権力(王や皇帝など)から封じてもらっていた封建社会が次第に衰退し、国家権力が中央集権に向かっていく中で、昔の聖職者や宮廷貴族、ブルジョワ(フランス語)、ジェントリ(英語)といった名望家が集まって行う賢人政治から、政治「によって」生きる専門教育や試験(中国の科挙や日本の国家上級職試験)の選抜によって鍛えられたところの、いわゆる勉強ができて教養のある連中が、優秀な「行政幹部」として政治を補佐し重用されはじめます。この行政幹部の究極の形態が、いわゆる官僚制として定義されるのです。選挙で国民に選ばれるという建前(セレモニー)を通過した国会議員が、政治の大まかな方針を決めて、そして高等文官試験のような難しい試験を突破した優秀な官僚たちが、その方針を法令に落として忠実に実行する、これが現在の多くの国々の国家運営の仕組みとなっているわけです(マックス・ウェーバーによる)。
▼社会問題解決や宗教、についても、ここで申し上げた「政治」をそっくりそのまま「社会運動」「宗教」に置き換えても成り立つように思えませんでしょうか。社会問題解決活動、とは、社会問題解決活動「のために」生きる者によってのみ構成されたほうがかっこいいと思うのは望みすぎでしょうか。社会問題解決活動「によって」生きる、補助金サルベージャー、寄付のハイエナのような方々の振る舞いやなさりようを拝見するたび、その意を強く致します。こういったところが、一般取引社会に生き、事業を回して雇用を生んで売上を立て、事業税や消費税などの税金や社会保険料を支払い頑張っている一般企業に対して、自分たちは社会問題解決のための高尚な活動をやっている(だから儲かっているお前らは寄付よこせ)というよくわからないマウンティングや奢りのように感じてしまう原因なのかもしれません。当社としては、社会問題の解決のためにできることとして、誠実に業務に向き合い、きっちり働いて売上成果を出して、雇用を生み税金や社会保険料を納めることだと信じてやみません。
▼以上、当社個別のひとつの感想でした。異論ご批判、議論の展開を期待しております。ハチドリ電力も大好きですが、同じくらい東京電力も九州電力も大好きな当社からの今日の記事は以上です。