アレクサンダー大王かく戦えり

ガウガメラの戦い

おはようございます。図は紀元前331年、ガウガメラの戦いの見取り図です。世界の半分以上を支配していたペルシア帝国と新興のマケドニアの若きアレクサンダーとの最終決戦、古代オリエント、アレクサンダー大王が大好きな人は必ず見たことのある話です。

ちなみに、筆者はラテン語読み「風」に聞こえるアレクサンダーと表記しますが、アメリカ英語に寄った方には、「アレキサンダー」の表記のほうが耳に馴染んでいるかもしれません。ここは趣味の範疇なのでこれ以上の言及は控えますが、アメリカ映画などで、あまりに米国観客向けに設定が寄ってしまうと、それはそれで興を削ぐことになるかと個人的には思います。当然、当時のアレクサンダーたちは英語を喋っていたわけではないですので。

時は紀元前331年10月1日、現在のイラク北部と目されているガウガメラの地にて、新興の西方ギリシャマケドニア軍と東方の老大国ペルシア帝国との最後の決戦の火蓋が切られました。

ガウガメラの戦いと言いまして、この戦いは世界中の軍史家にとって古くからの研究対象となっております。

彼らに言わせればマケドニア最高指揮官であったアレクサンダー(英語読み、ラテン読みではアレクサンドロス)による軍事上の傑作と評されまして、後世に続く戦史の中でも、その作戦が現代に伝わるものとしては最も古いものに属しますが、人間の戦略というものはたとえ二千年以上前でも通用するものであり、この勝ち方は白眉です。

アレクサンダーの戦力は歩兵40,000、騎兵7,000のところ、対するペルシア帝国最後の皇帝ダレイオス三世は歩兵150,000、騎兵35,000と数では圧倒していました。

その他に戦車や傭兵も擁したと推定され彼我の戦力差は一目瞭然でした。

しかも、ダレイオスは戦力差が優位に働く平原を戦場に選び、わざわざ周囲の草も刈っておくという周到さだったのです。

しかし、アレクサンダー軍はわざわざこの地にやってきます。

彼の戦術は数的劣位を跳ね返す機動力でのタイミングを合わせた挟み撃ち勝負でした。

中央に布陣したダレイオスに対し、右翼にアレクサンダー自身、左翼に前王から仕える極めて有能な将軍パルメニオンを配します。

かくして戦いは始まった

さあ大会戦の火蓋が切られました。

自身は一旦前に進むかと思いきや戦場を離脱していくように自身の騎兵隊を右に展開していきます。

ダレイオスの鼻先をかすめて横に進んでいく敵の最高指揮官を討たせるべく、ダレイオスは自陣の左翼に命じて追撃させます。

ダレイオス軍の左翼が伸びきったところで、アレクサンダーは馬首を返し、敵の左翼とダレイオス自身が率いる中央軍との隙間(裂け目)にくさびを打ち込むように突入しました。

敵の左翼はアレクサンダーの騎兵の後ろに控えた歩兵が受け持ちます。こうして敵の分断に成功したアレクサンダーは一気にダレイオスに迫ります。

ダレイオスはなすすべなく撤退し、ここに大会戦の趨勢は決しました。

マケドニア軍左翼のパルメニオンは、敵の巨大な右翼のまさにすり潰すような攻撃によく耐え、崩壊を免れました。

間一髪、アレクサンダーの本体が救援に駆けつけ、ここにパルメニオンは救われ、この会戦のもう一つの殊勲者として名を上げたのです。

アレクサンドロスに機動力と勝負の刻を与えたパルメニオンの功績もまた同程度に評価されるべきでしょう。

カクテル「アレキサンダー」

普通ならここで終わるのですが、筆者は最後にこの話をします。

その後、このパルメニオンはアレクサンダー暗殺のはかりごとを主導した罪で、使者に立てられた友人の将軍らに殺されます。

かつて一緒に戦場を駆け、共に戦い勝利を上げた二人も、歴史の渦としがらみに巻き込まれた結果、共に生きることが難しくなってしまった、このような事例は世界史に、日本史にごまんとあります。そのような悲惨な結末にならないために、慎重に、人の心に寄り添って、我々は生きていくべきだと思います。

おしまい