歴史を学ぶ意義

歴史を学ぶのは人間がやることには再現性があるから

歴史は繰り返すとよく言われますが、歴史を少し勉強すると、驚くほどに人間とは変わっていない生き物なのだと感じることが多くあります。

平成31年間の中で、日本を揺るがしたあのオウム真理教、地下鉄サリン事件に代表される先鋭的な新興宗教が流行りましたが、当時の信者たちは、結構若い年齢でした。今では、その中核はだいたい60代くらいでしょうから、こうした社会運動にも新陳代謝が必要なのかも知れません。

このオウム真理教は、衆議院議員選挙に出馬したりといろいろ世間を賑わせており、大手のマスコミも何よりのフリーコンテンツということで、ある意味好意的にこの団体を取り上げている時代がありました。オウム真理教は、いろいろと資金源を確保するために、あらゆるサイドビジネスを手掛け、教団の経済的基盤を拡充するために、ソフト会社やシステム会社、さらには弁当屋を営業して24時間体制でこれだけの格安弁当を提供していたのです。

まさに、信者の手弁当。「オウムのお弁当屋さん」と称して信者を修行と称して働かせれば、最低賃金以下の待遇でも喜んで人は働きます。どういった労働契約になっていたのか詳しくは存じませんが、宗教団体や先鋭的なネットワーキングビジネスではよくあるビジネスモデルだと思います。人間の興味関心集中をここまで集めることができるのは、人間コンテンツを知り尽くした彼らの常套手段です。

手弁当で信者を働かせ、そして、この低価格で24時間営業を展開していた所にその業を感じさせる店舗運営です。

さて、そんなカルト宗教たちが跋扈していた昭和平成という時代も過ぎ、今の令和の世の中では、同じような仕組みがオンラインサロンという名前に代わり、そうして、SNS(ソーシャル・ネットワーキング)を介した新しい新興宗教と呼ぶべきものが爆誕しているようです。

えんとつ町の弁当や爆誕

歴史は繰り返す、「えんとつ町飯店」の誕生です。オウムの弁当やさんで、オウム真理教の信者の皆さんが、それこそ身を粉にして働いたように、こちらの、えんとつ町のプペルのみなさんも、プペルのお弁当やさんにおいて、大きくヒトモノカネを喜んで投下して、弁当をカネに変えてせっせと上納している、このような姿が垣間見れます。

個人的には、インターネットやSNSの発展は、既存の宗教(新興宗教に限らず)に大ダメージを与え、人はスマホやタブレットといった電子板を持ち歩けば、「つながる~」という安心感に包まれ既存の宗教を欲しなくなる、既存の神がGoogleさんに取って代わるのではないかという仮説をもっておりましたが、どうやらGoogleさんといったそのような存在ではなく、人間はやっぱり人間コンテンツが大好物ということで、歴史は同じような人間カリスマを求めて、一生懸命せっせと弁当を作るのかと思った次第です。

なお、かつてのオウム真理教も黎明期においては教祖の特異なキャラクター性をネタに当時のマスメディアが面白半分でプッシュしてしまいました。さらに、京都にある某国立大学の大学祭のメイン招待キャラクターに上り詰めるといった日本全国のあおりの結果、その後の悲劇に結実したという側面が確かにあります。この人間コンテンツを見て、浮き上がる撮影方法とかいって喜んでいた当時大学生だった筆者などは大いに反省すべき時柄です。

同志社大学に来た西田ひかるを見に行けば良かったです。

さて、令和の現代においてこの手のビジネスを展開している教祖たちも既にマスコミに出演しており、彼らマスコミと教祖たちは、持ちつ持たれつの関係なのです。

そして、かつてオウム真理教を支えていた当時の若き信者達も、今や高齢化激しく、新陳代謝が必要となり、令和の現代においては、おそらくSNSやインターネットを介した形で、中身は昭和平成そのままのご飯論法ビジネスでやっていくのが主流になっていくのかと思うと、人間とはなかなか学ばない動物であるなと1人愚考する次第です。

そういうわけで、過去の歴史を学ぶことは、人間がより人間を理解するために最も適切なアプローチだと考えています。大東亜戦争と呼ばれた戦争をきちんと読もうと思いまして、買い求めました。これから読みます。

以上