タリバンがアフガニスタン全土を掌握

アフガニスタンの位置

タリバンがアフガニスタン全土を掌握

武装勢力タリバンがアフガニスタン全土を掌握し、政府打倒もしくは政権移行のプロセスに入ったという衝撃的なニュースが入ってきました。

まずは、タリバンの成り立ちとアフガニスタンの近代史を紐解いてみます。日本の我々には、公安調査庁(こうあんちょうさちょう、英: Public Security Intelligence Agency、略称: PSIA)という法務省の外局がありまして、公安などと略される行政活動として、オウム真理教への観察処分の実施、周辺諸国や国内諸団体及び国際テロ組織に対する情報の収集や分析、情報提供を行う治安維持機関であり、諜報機関です。

当然ですが、日本も独立国としての体裁と実力を保持するために、このような国際諜報活動を行う機関がございます。テレビや小説、ゴルゴ13だけの話ではなく、アメリカやイギリス、ロシアの諜報機関などと対峙して、日本の外交の一翼を担っているわけです。

この、公安調査庁のサイト(誰でも見れます)には、タリバンについて以下のように書かれています。

タリバン
Taliban

アフガニスタンで活動するスンニ派過激組織。アフガニスタン政府や同国駐留外国軍を主な標的としてテロを実行。別称:①「アフガニスタン・イスラム首長国」(The Islamic Emirate of Afghanistan,Emarat-e Eslami-ye Afghanistan, Da Afghanistan Islami Imarat) ②「アフガニスタン・タリバン」(Afghanistan Taliban, Afghani Taliban),③ Taleban

(1) 設立時期

1994年11月

(2) 活動目的・攻撃対象

ア 活動目的

駐留外国軍の撤退及び「米国の傀(かい)儡(らい)」とみなすアフガニスタン現政権の打倒を当面の目標とし,その後,「アフガニスタン・イスラム首長国」による政府を樹立し,シャリーアに基づく統治体制の確立を目指す。

イ 攻撃対象

主な攻撃目標として,声明などで,①駐留外国軍及び外国公館,②アフガニスタン国軍,警察及び情報機関,③政府高官,国会議員,④外国人,などを挙げている。

(3) 活動地域

アフガニスタンのほぼ全域で活動が見られる。また,「タリバン」幹部の多くは,パキスタン南西部・バルチスタン州クエッタ,北西部・カイバル・パクトゥンクワ(KP)州ペシャワールなど,パキスタン側のアフガニスタンとの国境地帯に潜伏しているとされる。

20年を経て再度アフガニスタン政府を打倒したタリバン

このような、現在のアフガニスタン政府を公然と打倒することを目的にした武装勢力が、米軍の駐留撤退により力を盛り返し、アフガニスタン主要都市を次々に占拠し(彼らからすれば解放)、ついに首都のカブールを包囲し突入した、ということのようです。

実に20年ぶりの、タリバンによる再度アフガニスタン政府打倒が確実になりました。

そもそもタリバンとは

そもそも、タリバンの成り立ちは、アフガニスタンにおけるソヴィエト共産党政権崩壊(1992年)後に始まった各所の勢力争いが激化する中、創始者のオマル(死去)が1994年11月「タリバン」と称する武装グループを組織し、同州都カンダハールを制圧したことで国際社会にその名を知られることになりました。

その後、アフガニスタンやパキスタンから多くのイスラム神学生が加わり、勢力を拡大してアフガニスタン全土の南半分を掌握した「タリバン」は、1996年9月政府軍を破って首都カブールを制圧し、「アフガニスタン・イスラム首長国」の樹立を宣言しました。さらに、全土の北半分のハザラ人、ウズベク人、タジク人などの少数民族による武装勢力を次々と破り、1998年8月に北部・バルフ州都マザリシャリフを制圧したことで、アフガニスタンの大部分を事実上支配するに至りました。

タリバンによる事実上のアフガニスタン支配

「タリバン」は、元々欧米諸国に対して明確な敵意を有してはいませんでしたが、1997年にオサマ・ビン・ラディンらを保護下に入れた後、次第にその世界観に影響され、欧米諸国や国連に対しビン・ラディンの使う挑発的な言葉を用いた声明を発出するようになります。ここは、同じく敗戦国あがりで未だに常任理事国入りもできていない、我が国としても同情する余地があるのが問題を複雑にしています。

また、1998年9月には偶像崇拝の禁止を徹底すべく世界遺産に登録されていた中央部・バーミヤン州の仏教遺跡群の石像を一部破壊しました。仏像を破壊する動画はユーチューブ等に繰り返し掲載され、世界中でニュースになったので見た方も多いでしょう。ここに至り、同じイスラム教スンニ派を奉じ、ぎりぎりまで「タリバン」政権を承認していた西アジアの盟主サウジアラビアは、「タリバン」によるビン・ラディンの保護に反発して、援助及び外交関係を停止します。

こうした中、国連安保理は、1999年10月米国によるビン・ラディンの引渡要求を再三にわたり拒否する「タリバン」に対し、アフガニスタンへの民間航空機の乗り入れ禁止や「タリバン」関係の銀行口座の凍結などを定めた安保理決議第1267号を採択したほか、2000年12月には,同年10月にイエメン・アデン港で発生した米駆逐艦コール爆破テロ事件に関連し、改めてビン・ラディンの身柄引渡しを求める安保理決議第1333号を採択しました。

しかし、「タリバン」は客人であるビン・ラディンを追放することはパシュトゥン人の伝統に反するとして拒絶し続け、2001年3月には,「アフガニスタンの仏像は,偶像崇拝に用いられるものであり、全て破壊されなければならない」などと宣言した上で、再び、バーミヤンの仏教遺跡群の石像を破壊しました。イスラム過激派原理主義に従い、国際協力を拒否する姿勢を鮮明にしたわけです。

米国同時多発テロに端を発した国連軍攻撃により崩壊

「タリバン」は、2001年9月の米国同時多発テロ事件後もビン・ラディンの身柄引渡しを拒否したため、米国主導の連合軍は、同年10月、安保理決議第1368号による自衛権の発動として、アフガニスタンへの攻撃を開始しました。首都ニューヨークを航空機自爆テロで攻撃されたアメリカ合衆国としては、もはや我慢の限界であり、実力行使を伴う攻撃は、ある意味一方の正義の発露です。「タリバン」政権は、同年12月連合軍の攻勢に後退を重ねた末、最後の拠点であるカンダハールを放棄して崩壊しました。

しかし、またも再起

しかしながら、カンダハールを追われた「タリバン」の生き残りは,隣国パキスタンの部族地域に活動拠点を移して勢力を回復させるとともに,2002年には武装活動を再開し,2005年以降は,自爆攻撃や即席爆発装置(IED)などによる攻撃を採用した上で,アフガニスタン東部から南部にかけてテロを拡大させていきます。こうして、アフガニスタンの中立的政府ではどうしても国内統治できないことが再度露呈し、このイスラム過激派原理主義を掲げる(けれども同国内では十分な支持や補給が得られる)タリバンが20年の時を経て、再度アフガニスタン政府を打倒し、全土を掌握するに至ったのです。

日本はどうすべきか

歴史は繰り返します。国連や国連安保理の欧米国および戦勝国には、難しい舵取りが迫られているのです。

そして、日本に対しても本件についてどのような立ち位置を取るべきか、非常に難しい選択が日々迫られているのです。

ことは急を有する話で状況は刻一刻と変わります。しかしながら、日本の外交官及びトップ層の政治家は、この重大な局面に対応できる胆力があると信じています。普段は昼行灯でもいざ鎌倉となればまとまり何とかしてしまうのが日本の真骨頂です。ぜひ欧米諸国や連合国の立場、最貧国で民族自決を願うアフガニスタンの人々との取り持てるような役回りを期待したいと思っています。

以上