武士の世ってなんだろう

承久の乱。1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府ではなくて、1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府で最近は覚えるらしいですが、これは、征夷大将軍という官職を朝廷からもらったという形式面より、全国に守護地頭を置き直接支配を完成させた1185年をもって、実質的な鎌倉「幕府」の誕生と見るのが適当であろうという実際の学問の進展から起こっているものです。

さて、その朝廷の番犬にすぎなかった鎌倉幕府が本当の意味で日の本一の権力機構となるのか、それが「承久の乱」なのですが、その失敗について敗北側の後鳥羽上皇は、どの様に反省したのでしょうか。

まず、釘を差しておきたいのですが、後鳥羽上皇が無能であれば、鎌倉幕府を倒そうとした「承久の乱」は失敗して当然という話になりますが、上皇は無能な人間では全くなくて、むしろ有能かつ多才な人間で、政治、経済にも、文化にも通じている、軍事にも有能で上皇自身が武術にも優れて、非常に力もあったわけです。

現代の世の中で言うなら、中田英寿や大谷翔平、イチローや松井秀喜クラスだったことは間違いありません。それだけの高みから世の中を見ることができる稀有な人材だったということです。

そして、当時は京都(平安京)の治安を守らせる為に犯罪者を利用していました。

世界各国、日本でも見られた光景ですが、犯罪者を雇って、逆に治安を守らせる。

その警察組織の先頭に、上皇自身がたっていたわけです。

そして、上皇は鎌倉幕府を倒す為には、自分の軍隊を持たなければならないと考え、武士を集めて、朝廷軍の編制を試みた。この発想は正しいです。

例えば、後鳥羽上皇の約100年の後に登場する後醍醐天皇(鎌倉幕府を打倒)なども僧兵を頼みにしました。

ところが、戦いの専門家である「武士」に対しては「僧兵」など機能しないのです。

おっさん草野球チームで、高校野球の県大会クラスで勝とうとするようなものです。

どだい無理な話です。

僧兵は、元々、武士の次男、三男などの出身で、武士の専門教育から外された身です。基本的には、武士かもしれませんが、戦さの本番では勝てません。

そのあたりの事情も勘案して後鳥羽上皇は武士を自分の方に引き寄せる努力を徹底しました。

主従制に基づき、将軍と主従の関係をむすんで鉄壁の一枚岩を誇る御家人達。しかしながら、実際には、源氏将軍を凌ぐ権力者として、北条氏(実は平氏‥)が台頭しているわけで、そうすると御家人の中にも「北条がでかい顔するのは嫌だ」と反発する層が出てきます。そうした御家人の中に手を入れ「ならば、俺に支えろ、俺の下で働け」という工作を行い、相当には強い軍隊を作り上げることに成功したわけです。

鎌倉殿にしてみれば、これは本当に嫌な工作だったようで、武勇優れて貴種の最高ランクの上皇に熱を持って誘われたら、そりゃなびくでしょうというものです。

しかし、ここが、まさに後鳥羽上皇の立場の限界、なのですが、確かに上皇は有力な武士を引き寄せる事に成功したけれど、そこまでだったのです。

実際に前線に出て上皇が戦うといった「破天荒」なことまでできればよかったのですが、そうすれば、天皇親政(軍事大権を握る王国制)という、別の日本史が始まったかもしれませんが、そうすればどこかでこの「王朝」は力で打倒され、今につづく天皇家は消滅していたかもしれません。

戻って鎌倉時代。やはり、偉い人が、下々の事情まで、めくばりするのは、限界があったともいえましょう。

とにかく後鳥羽上皇を無能扱いするような間違った言説に惑わされませんように。

人の上に立つということは、それなりに、大変なものなのです。

かつて菅ちゃんや安倍ちゃんを、あれだけ批判していた皆さん、偉い人や立場が上の人をやっかんだり批判したりする前に、自分の身を振り返り、謙虚に行きたいものです。

それが身のある教養を付けるということです。

後鳥羽上皇の誤算

鎌倉幕府は諸国の武士団が御家人として「自分たちの荘園の権益を守るために創設した」のであって、御家人たちは源氏の「血統」を絶対視していたわけではないのでした。

源頼朝が将軍になれたのは、源頼朝がたまたま担ぎやすい地位にいたからに過ぎず、たとえ源氏の血が途絶えたとしても、御家人の権益が守られれば、鎌倉幕府の体制が揺らぐことはなかったのです。これが本音です。

この点、後鳥羽上皇は「朝廷の権威」を過大評価していました。つまり建前を重視しすぎたのです。

後鳥羽上皇とその取り巻き、そして朝廷は、朝廷を敵にすれば天罰を恐れた武士たちは戦わずに降参するものと思っていました。

朝敵となった以上は、北条義時に参じる者は千人もいないだろうと、後鳥羽上皇の伝家の宝刀「院宣」の効果を絶対視していました。

つまり、抜かずの刀であり、大きな戦いにはなるまいと楽観したのです。

幕府の実権は北条義時が握っていても、東国の武士が北条氏に心服しているわけではないと考えました。

しかしながら、北条氏が実力で統率している幕府でしたが、あくまで御家人あっての幕府、であり、その意味で北条義時だけを切り取ってあとの御家人を朝廷に従えさせるという後鳥羽上皇の戦略は、御家人あっての「幕府」であるという御家人総意の覚悟を固めることになり、後鳥羽上皇が頼りにした「朝廷神話」が玉となって砕けた、そのような歴史の転換点だったのです。

以上