参議院議員選挙2022 福岡選挙区候補予定者 大田京子さんインタビュー

大田京子 独占インタビュー

大田京子(おおた・きょうこ)参議院議員選挙2022 福岡選挙区候補予定者

大田京子(おおた・きょうこ)国民民主党福岡県総支部連合会代表・福岡県議会議員(2期目)

福岡県出身。1978年9月9日生まれの43歳。91年福岡市立西高宮小学校卒。97年福岡女学院中学校・高等学校卒。2001年福岡大学商学部卒。同年(株)ユニクロ入社。2009年堺整骨院グループ入社。2015年福岡県議会議員初当選。2019年同2期目当選。3児の母。

 ―福岡県議を2期7年務められて、夏の参院選福岡選挙区への立候補を表明されました。経緯をお聞きしたいのですが、現在代表を務める福岡県連の発足が昨年9月でしたね。

 大田 はい。当初から今回の参院選に向けて、党の福岡の体制づくりが求められていました。比例選候補者のためにも比例票の掘り起こしが必要ですからね。そこで、連合福岡傘下の4つの産業別労働組合からもご協力いただいて、昨年9月20日に福岡県連が設立されました。私は当時、代表代行でした。

 その直後に先の衆院選です。私たちとしては福岡の小選挙区で候補を立てたかったのですが実現しませんでした。それでも比例九州ブロックで1議席を獲得できました。私はこの結果が、私も含めた県連所属の議員たちを自立させることができたと思っています。

 そうした中で、参院選に向けた準備が始まっていきました。

―連合福岡の呼び掛けで、当初は国民民主党と立憲民主党の両党推薦による無所属統一候補の擁立が話し合われていましたが、党籍などを巡って調整がつきませんでしたね。

大田 はい。県連としてその後の対応を党本部とも相談する中で、立候補することを決めました。

―決めた理由は。

大田 もともと、複数区では独自候補を立てるという党の方針もありましたし、やはり衆院選の比例九州で議席が取れたということが大きかったです。福岡でも9万票以上獲得できていました。地元でもそれだけの人が国民民主党の存在を望んでいるわけです。

それに私は国民民主党が大好きなんですよ。私が立つことで党のためになるのなら本望です。福岡県における“国民民主党応援団長”とでも言いましょうか、そういうことなら喜んでやれる。

同時に、応援という意味では、私は福岡県議として2期7年の間、障害がある人たちや子どもたちの応援を第一に活動してきました。これは、たとえ政治家でなくても自分自身のライフワークにしていこうと決めているものですが、それを国政の場で訴えるチャンスが来たわけです。弱い立場の人たちを支え、応援していくには、法改正や制度改正、予算配分といった根本的なことに手を入れないと実現できないことが多くあります。そのためにも立候補しようと決めました。

―障害がある人や子どもたちの応援を一番に挙げるのはどういったことからですか?

大田 私自身、子どもの頃に親と折り合いが悪くて家を飛び出すこともあって、悩みを抱えていた時期がありました。社会人になってから、早く自分の家族が欲しくて23歳の時に子どもを持ったのですが、子育てと仕事の両立に大変苦労しました。自信をなくすことも度々ありました。ちなみに県議選のときは初挑戦と2期目、いずれもシングルマザーでした。そういった自分自身の経験によるものです。

特に、子どもが小さいときの仕事を抱えながらの子育ては本当につらくて、私は精神的にも疲れていました。そんな時に、ずっと以前から私の悩みを聞いてくださっていた整骨院の先生から「一緒に働かないか」と誘われたのです。私は転職を決意し、31歳の時に当時勤めていたユニクロを辞めて、先生の整骨院に入社しました。

―大きな決断をしましたね。

大田 なにより心の支えだった先生からのお話でしたし、私のように精神が疲労している人を助けたいとの思いがありました。入社してからは整骨院の世界を一から学ぶために専門学校にも通いました。その後に、はり師の免許を取得し、カウンセラーや民間療法も学んで、心と体のケアをする系列治療院の院長を任されました。

 実際に患者さんに向き合って治療してみると、心と体のバランスを崩してしまっている人がたくさんいました。そして、その多くが社会的に弱い立場の人たちであることを目の当たりにしました。本人たちの力だけではどうにもしようがない、社会のひずみやしわ寄せがその人たちに行っているのです。そうなると目の前の患者さんを治療するよりも、社会環境を変えていかなければいけないのではないか、と思うようになりました。

 ―それが政界を目指した背景ですか。

 大田 そうです。ちょうど2015年の県議選が控えていた時期で、前述の整骨院の先生が「政治家になってみたら?」と勧めてくださったのもきっかけです。先生の言葉を聞いて「よし、出馬しよう」と決意しました。

―思い切りましたね。

大田 即決です(笑)。36歳で選挙のことなど右も左も分からない中で挑戦し、皆さんのおかげで初当選することができました。2019年からは2期目も務めました。県議時代に訴えた児童虐待防止対策の強化や障害者差別解消条例の制定は、それぞれ実現にこぎ着けています。ですから、国政でも社会的に弱い立場の人たちの声をしっかり届けていきたいと思います。

 ―それではプロフィールについて。ご家族は?

大田 再婚した夫と、20歳の娘、17歳の息子、7歳の息子の5人家族です。

―ご自身は1978年生まれで福岡の出身ですね。

 大田 幼少期の一時期に岡山市に移っていましたが、福岡に戻って西高宮小学校を卒業しました。福岡女学院中学校・高等学校に進み、バスケットボール部でキャプテンをし、生徒会や聖歌隊にも所属していました。特にバスケ部は当時の私にとってよりどころでもありましたから、かなり打ち込みましたね。

 ―高校卒業後は福岡大学に進まれています。

 大田 体育教師になりたくて、複数の大学の教育学部や体育系を受験しましたが全部落ちてしまい、福岡大学の商学部に入学しました。

 ―バスケットボールは続けたのですか?

 大田 最初はバスケサークルに入会しましたが、モヤモヤしていました。体育教師になりたかったくらいですから、もう少し厳しいところに身を置きたかったのです。それで体育部会のバスケットボール部に入部できないかと、同じ商学部でバスケ部に所属していた友人に頼み込んだら、ありがたいことに入部できたのです。バスケ部では副主将を務めました。

 ―それはすごい。福岡大学のバスケ部は強豪でしょう? 副主将に選ばれるほどの実力をお持ちだったのですね。

 大田 それが違うんですよ(笑)。腕前でいえば、私なんか下から数えた方が早い。ほかのバスケ部員は特別推薦で入学した子ばかりで、一般で入学した私から見たらレベルが違い過ぎますし、憧れの人たちでしたから。そんな人たちと一緒に練習できる喜びの方が大きかったですね。ですから、チームのためになるのであればボール拾いも、水の準備も、試合ではベンチでの盛り上げ役も何でもやりました。それらを先輩たちが見てくれていたのかもしれません。

 大学時代のバスケ部の経験は、今の私にとって大きなものです。行きたかった体育学部の受験の失敗から始まって、福岡大学で入りたかったバスケ部にお願いしたら入部がかない、チームのために活動することができたわけですからね。

 ―大学卒業後は、新卒でユニクロに入社されたのですか。

 大田 はい。福岡や熊本、長崎の店舗で勤務した後、当時西日本の旗艦店だったミーナ天神店でフロア店長を務めました。また、サービスアテンダントといって従業員の職場環境を改善する事業も立ち上がり、その業務にも携わっていました。従業員満足度を上げるために、従業員をケアし、安心して働いてもらえる仕組みを作る仕事です。それが結果的に顧客満足にもつながりますから、とてもやりがいを感じていました。

 ―ケアをする仕事にやりがいを感じていたというのは、後に転職する整骨院の仕事に通じるものがありますね。

 大田 そうかもしれません。私はそうやってそばにいる人を支え、応援することに喜びを感じるのです。大学時代のバスケ部もそうでした。プレーで貢献できない分、ほかのことでメンバーをサポートしましたし、試合の時はベンチで応援団長(笑)。

 ―やはり今にもつながっていますね。福岡での党の応援団長であり、社会で弱い立場の人たちも応援していくという。

 大田 性格として一貫していると思います。

 ―子供の頃や子育てのときに悩まれたとのことですが、ご本人を目の前にすると、とてもお元気な印象があります。その源はどこにあるのでしょう?

 大田 岡山市にいた頃、現在の南区に住んでいましたが、今から30数年前ですから当時自宅があった場所はとてものどかだったのです。それこそ、近所を裸足で走り回って、川でザリガニを取っていました。もともと私はそういうタイプなんです(笑)。

 ―そうでしたか。本日はありがとうございました。

                                   了