諸君、狂いたまえ(吉田松陰の言葉)

諸君、狂いたまえ

「諸君、狂いたまえ!」いいですね、私のスローガン、座右の銘です。

さて、この言葉聞き覚えの有る方はなかなかの歴史通。実は幕末の傑人、吉田松陰先生の言葉です。吉田松陰と言えば松下村塾、松下村塾と言えば、伊藤博文、山県有朋、高杉晋作といった維新の志士たちと、つぎつぎ連想してしまい言葉が尽きません。塾生名簿は現存しませんが、著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがおり、総計で約90名余りが松蔭の教えを受けたと言われております。

さて、いまなぜ吉田松陰なのかと言えば、マクロな歴史的要請もあるけれどもそれは置いておいて、ミクロで言えばわたしの主催する小さな有志塾にて、上杉鷹山に続いて吉田松陰がお題になったからなのです。

私も吉田松陰先生の伝記を読んだことがあって、松下村塾にて素晴らしい人材を育て上げた人、国のことを真剣に思い、行動された人として尊敬しておりました。塾で改めて話すにあたり、調べ直すに松蔭先生に対するイメージが変わったのかと問われれば、より一層尊敬の念が深まったことと、「諸君、狂いたまえ!」という言葉に先生のすべてが詰まってるな、もっともっと私も頑張らなくてはと思ったと、そう答えるでしょう。

人格形成をなし自身を奮い立たせるにあたっては、先人の活躍譚に勝るものはないように思います。小学校の時は、学校図書と移動図書の蔵書の中から、吉田松陰をはじめ、織田信長、豊臣秀吉、エジソン、ファーブルなど偉人の活躍について綴られた伝記物を引っ張り出してきて貪るように読んだ覚えがあります。できれば世の中にインパクトを与える、爪痕を残せる立派な人になりたい、世のため人の為に役に立ちたいと大変影響されました。そこに小学校周辺が田舎ということも手伝って、サボるとか、寄り道をするとか、ウソをつくなどという言葉は私に限らず、学友の頭の辞書にもあまりなかったように思います。

話を戻しまして、吉田松陰先生の生い立ちについてふれいたいと思います。彼は1830年に長州藩に生をうけました。若かりし頃は、兵法学者として防備の在り方はどうあるべきかについて考えることが仕事だったようです。8歳にして長州藩主に御前講義を行う、その卓越した能力体力と情熱的すぎる行動力は、さまざまなエピソードからうかがい知ることができますが、そのひとつめが東北遊学です。

1852年、水戸藩の国学とさらに国防について学ぶために遊学に行くことを決意します。同行者の宮部鼎蔵と待ち合わせした日に藩の通行手形の発行が間に合わないということで、松蔭は脱藩をして東北に向かいます。当時において脱藩は死罪相当の重罪ですから、これには宮部も肝を冷やしたと思います。

東北で国学、水戸学に触発された松蔭は、その後水戸学をさらに深め、天皇を中心とした国家観を強く持つようになります。 『身(み)皇国(こうこく)に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん。』その気概が充分に伝わってくる言葉です。すめらぎの国がどういう文化・伝統を持ってここに至るのかを知らなければ、これから進むべき道もわかるはずがない、目の前の枝葉末節のことを論じても仕方がないではないか、ということだろうと思います。私のもっとも基本的な政治信条もここにあります。

1853年には全日本人が震撼したペリー来航イベントが発生します。太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず、という有名な歌が残されていますね。今日的政治家や官僚にあたる武家たちは、来航の情報も船の構造等も知っていたようで、教科書が伝えるほどにひっくり返るような事態ではなかったようです。日本の学者たちも蒸気機関について書物上では知っていて、乗船時には確認する機会も与えられました。ただ圧倒的な工業力の差、戦力差は存在するわけで、そのことに居ても立っても居られない松蔭先生は、海外で実際に学んでくるとの決心の下、勝手に乗船した上での米国密航を企てます。まず一回目は長崎のロシア船で失敗し、さらに下田で再来航したペリーの黒船に乗り込んだまではよかったのですが、幕府との条約に抵触するとのことで渡航を拒否されます。下船した松蔭は真面目ですね、下田で自首して牢屋に閉じ込められます。私の座右の銘、かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂 そのままです。

長州に移監された松蔭は、まもなく杉家に幽閉処分となります。1857年、叔父の松下村塾にて教鞭をとり、有名な維新の志士たちの教育にあたるのでした。彼の教育方法の特徴はその情熱にあるというべきでしょう。教材については詩経五書をはじめすきなものを門下生に選ばせて、わからないところがあれば先生が答えるという方法をとります。それだけ自由度が高ければ、松蔭先生にも当然わからないところが出てくるわけで、その時は翌日まで待つよう言ったそうです。一晩掛けて勉強をして、目を真っ赤にした先生から、ここはこういう意味ですよと門下生は説明を受けました。門下生たちは、先生の情熱的な姿勢を見るうちに、この先生のためなら死ねると考えるようになったそうです。さて、実際に教鞭をとったのはどのくらいの期間か大変気になるところです。あれだけの偉人を輩出されたのですから、6年、7年は指導されたのかなと想像するところです。しかしよくよく考えてみると松蔭先生は、1859年には処刑されていますので、叔父の塾をゆずり受けてから1年程度しか期間がないことがわかります。

これは驚きです。たった1年の教育で維新の志士、しかも明治期においても中心的に活躍する人々が育て上げられていたのです。いかに教育カリキュラムや教材が整っても、熱意に勝るものはないと痛感させられるに十分なお話です。

1859年の処刑に関わる話を少し致しましょう。1858年、日米修好通商条約を幕府が結んだことを耳にすると、松蔭先生は、天皇陛下の許しを得ずに勝手をしたことに激怒します。すぐさま倒幕すべしと長州のお殿様に相談をしますが、これに慌てた藩によって再度投獄されます。人生通算の投獄歴は5回とのことです。周り人々、門下生も血判状をもって思いとどまるようにと説得を試みますが逆効果。一部の門下生を除き破門、絶縁を言い渡されます。

その後の取り調べの中で、聞かれてもいない老中暗殺計画を暴露して死罪が確定します。松蔭先生としては、正しいことを主張すればわかってもらえるはずだと考えていたようです。ようするにわからないやつが悪いと。その信念は死の間際まで貫き通され、「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」との彼の言葉を残し、実に堂々とした最期を遂げられたそうです。

さて、ここでようやくタイトルの「諸君、狂いたまえ!」について解説戻ります。彼自身、自分のことを狂愚と言っていたそうです。ここでの狂人とは奇人変人ではなくて、溢れんばかりの情熱でもって積極的に行動する人のことを意味しています。ですから、門下生にはことあるごとに「諸君、狂いたまえ!」と訓示していました。その影響ははかり知れず、明治維新の原動力になっただけでなく、弟子の高杉晋作は自身を東洋の一書生ならぬ一狂生と名乗り、山縣有朋は山縣狂介と名前を変えさせたそうです。「諸君、狂いたまえ!」は、大きな時代の転換点、逆境にある今日の日本と高知にこそ必要な精神だと思います。

ブログ書いているだけでも感化されるから不思議ですね。いつの時代でも、良いものは良い、素晴らしいものは素晴らしいのです。ぜひ、まさに人格形成期にある人達に触れて頂きたい偉人伝です。ことほど左様ですから、今回の定例会では吉田松陰先生のお話をしつつ、偉人の伝記を手に取ってもらえるような機会、環境を整えてもらいたいと思います。

そして、この日本の凄いところは、ここまでの人物にして、筆者勝手偉人ランキング第3位なのです。第2位は江戸時代、たった一人で天文学を学び日本中を一人Google mapで歩き通して大日本与地図を完成させた平凡の中の非凡、伊能忠敬。そして一位は平安の覇王、桓武天皇の理論的支柱にして唯一無二の天才自由人、入滅後の今も1300年、高野山奥之院にて修行に入って衆生の尊敬を集め続ける弘法大師空海、といったところで、この話は次の機会に。

以上