保育園児が被害に遭った事故の「記者会見」という情報発表手段における「報道側」の態度に物申したい話です
おはようございます。
2019年(令和元年)5月の筆者提供によるブログ配信記事です。
情報発信における「記者会見」というスタイルにどうも違和感を感じてきておりまして、これだけ直接情報の出し手と受け手がインターネット等を通じて直接つながる手段が豊富にある時代において、本当にこうした「マスコミを通じた」記者会見の情報を大々的に発信し受け取ることが必要なのか考えてみました。
直近世間の話題となっております、滋賀県琵琶湖河畔での無理して右折しようとした普通乗用車を直進ですり抜けようとした軽自動車が衝突し、勢いのついた軽自動車がそのまま跳ね飛ばされて歩道で信号待ちをしていた近くの保育園園児と保育士さんの列に突っ込んだという、保育園児2名の死亡者を出した非常に痛ましい交通事故において、事故当日の夜に被害者であるはずの保育園側が記者会見を開くという「事態」を目の当たりにしまして、記者会見という形が、どうも、報道する「マスコミ側」の都合に寄りすぎた「素材」に成り下がっているようなそんな気がいたしました。
こういう感覚を最初に、大きな影響力を持つ人ではっきりと日本で形に表したのは、筆者の世代よりも少し下の、あの世界的サッカー選手として名を馳せた中田英寿氏ではなかったと思います。
彼は、彼の発言の真意をはからず、センセーショナルな部分を都合よく切り取り報道する、そうしたマスコミを通した自分の姿が流布されるのを極度に嫌いました。
そうして、所属マネジメント会社を通じて自身のホームページを立ち上げ、そこから自分の言葉で情報発信を行いました。
今では普通になっている、芸能人やスポーツ選手の公式ホームページの先駆けとなったのです。
そして、引退の意向も極秘とされ、スポンサーとは守秘義務契約を交わした上で報告を行い、現役最後の試合となったW杯のブラジル戦のあと、まもなく、日本時間21時という絶妙のタイミングで、自身のホームページから引退発表を行いました。
この引退の「公式報告」を元に、報道各社は後追いしてこれを報じたわけですが、これはあらゆる情報発信における「民主化」の始まりであったと筆者は考えます。
放送電波の独占により、あらゆる情報を、大衆に先駆けて得ることができたという大手マスコミの優位性は、こうして大きく崩されていくことになるのです。
今では、どんな事件でも事故でも、現場の近くの人が発信した直接の情報をすぐ受け取ることができます。
しかしながら、その事象面での出来事が、いかなる影響を社会に起こすのか、そうした深い洞察はただ「見た」「聞いた」だけの情報からは得られないのです。
そこが、この瞬時に情報が得られる現代において、ますます必要となる能力、健全な批判的精神を持った洞察力というものなのでしょう。
この、保育園児童が被害者となった痛ましい事件は、道路の安全確保としての、「杭」の設置の促進といった対策面や事象面以上に、こうした事件事故の「報道のあり方」についてより大きな一石を投じたのではないかと思っています。
本日の主張は以上です。
(2019年5月11日 土曜日)