海軍中将 大西瀧治郎

知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館。
知覧は、太平洋末期に陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の主要な陸軍の出撃基地。
1945年の沖縄戦において、知覧飛行場からは439名の若き隊員が通常爆弾の2.5倍となる250㎏爆弾を胸に抱え戦闘機で敵艦に体当たり攻撃を行い、命を散らして逝きました。錦江湾の向こうの鹿屋航空基地からも、海軍機がまた同じく特攻で飛び立ちました。
彼らの平均年齢は約21歳、最年少は17歳。
特攻平和会館はその当時の様子を伝える博物館です。
特攻で亡くなった方は5,000人以上と言われます。ただの数字の一つ一つに、その方々の人生と生命が乗っています。
わたしの母の母、つまり祖母の下の弟も、水上特攻作戦、すなわち沖縄を救うための大和特攻に往き、艦隊副艦、軽巡矢矧の機関兵として戦い、戦死しました。19歳でした。
彼らは何のために命を散らして逝ったのか。
何を護るために命を散らして逝ったのか。
彼らが今の日本を見たときにどのように思うのか。
彼らが命の代えてまで願った世の中になっているのか。
神風特攻隊を発案し、一貫して指揮した第一航空隊司令長官大西瀧治郎海軍中将の遺書を紹介します。
彼は終戦後の1945年、昭和20年8月16日に官舎にて割腹自殺を図り、楽に逝くための介錯(首を切って即死させる)を認めず、治療などの措置も認めず、「できるだけ長く苦しみながら死なせてくれ」とただただ、十数時間もの間、自らの血の海の中で悶えながら亡くなったそうです。
遺書
特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い
聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と
世界人類の和平の為 最善を尽せよ
海軍中将 大西瀧治郎
「隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ 諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と
世界人類の和平の為 最善を尽せよ」
「命を懸けて、福祉と平和のために最善を尽くせ」
大西中将が逝くときに急行し傍にいたのがあの児玉誉士夫氏。
後を追って自分も割腹しようとした児玉氏に大西中将はこう言ったそうです。
「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」
戦後日本の復興を裏の世界で創り上げたその人です。
機械じゃなくて人間と交わる。
機械にも、物にも人の心は宿る。
以上