やりがいややる気というものをあえて横に置くことでクリアに見えてくるものがあるかもしれないという話です
おはようございます。
2018年11月のやる気のない筆者の配信記事です。
ところで最近よく、毎日あんだけよくもまあ、毒にも薬にもならない、最後に自分オチの駄文を書き続けられますねと聞かれることがあります。
確かに、これまではいろいろと理屈をつけて(例えば、作家デビューを見越して日本語(英語)文章構築能力向上のためとか、本業の不動産・ビルメン営業に繋がるとか人的ネットワークの構築とかアドセンスでがっぽり儲けたいとかいうもっともらしい理由をつけて)答えてきたのですが、正直最近は適当な理由を探すのが面倒臭くなってきました。
つまり、この「ブログ記事掲載」というのを続けるモチベーション維持の秘策はあるのですか、というご質問に対しては、
もはや
・モチベーションなんてそもそもありません
と答えることが本当の意味で正直で適当ではないかという境地に達したというわけです。
ここまで来るのに、ブログ始めて5年かかりました。
たとえば、飲み会をやってチームのモチベーションを上げて行こう!
という効用もあるとは思うのですが、これはチーム全体としての一体感の醸成ということであっても、「個々の人間」モチベーションについてはそれを上げようが下げようが、維持しようが実は個人の業務成果とはあまり関係ないのではないかと思うようになったのです。
やりがいとか、モチベーションとか言う前に、個人レベルではまず、ただやったらいいんじゃないか?
と考えるのです。
少なくとも、個人レベルで、やる気やモチベーションが揃わなければやらない、やれない、では手間がかかりすぎると思っています。
組織やチームにおける、物事を始める時にはいろいろとセレモニーが必要で、それは面倒なものです。
トップのコミットや演説、書簡(メール文書)での所信の表明やチームビルディングという名の飲み会など、それは、人々を束ねて同じ方向を向かわせる「マネジメント」という非常に高度かつ繊細な「奥義」であります。
しかしながら、個人レベルでやるかやらないか、そんなのは一個の人間として、己の戦いとして、個人レベルで対処して「済」にしておいてもらいたいものであり、どのようにやろうとしている事象を「認識」しようが、それをやる気になるとかならないとかなどは、とにかく横においておいて、淡々と「やる」ようにしてもらった方がよっぽど楽です。
毎朝、わざわざ、やる気を出して、トイレに行って顔を洗って歯を磨くでしょうか。
おそらく、習慣にして淡々と進めた方が、余計なマインドセットの労力がかからない分、本人にとっても周りにとっても楽なのではないかと思うのです。
会社のマネージャー(管理職)としても、やる気マインドのウェイウェイ系の自称仕事人より、淡々とタスク化して行動を習慣にして進める人間の方がよほど仕事や業務の成果を期待できます。
やる気一つで何でもうまくいくはずはありません。
・必勝の信念
で勝てるならかつてアメリカとの戦争に負けてない筈ですし、
・両国の相互理解
で紛争が解決するなら、
北方領土をソ連に強奪されたままにされたりすることは起こらないわけで、日韓基本条約を一方的に破る決定を行ったかの国に対しては、相互理解を深めることではなく、解決に向けた気持ちの醸成、などでは全くなくて、条約合意事項の履行を淡々と求め、必要に応じた制裁を行うだけではないかと思うわけです。
以上、やる気というものを、階段の踊り場のようなものと捉えた筆者のやるき中二階説を披露しましたが、これは、やる気が出ないことをやらない理由にするという悪癖を封じる良い効能があります。
会社組織の上司や管理職としては、部員メンバーのやる気なんか1つも求めておりません。
少なくとも、筆者においてはそうです。
求めるのは具体的な、プラクティカルな行動であり、それが成功しようが失敗しようが、それは、やらせた上司の責任だと考えています。
以上、モチベーション維持にどのように取り組んでいるのか、という読者のみなさんの疑問に筆者なりに答えてみました。
答えは、個人のモチベーションには特にこだわらない、ということです。
やる気ないままここまで書き連ねた記事を読んでいただきありがとうございました。
やる気なくても仕事はできる、ということを証明するため、今日もやる気ないですけど仕事もしようという「気になった」だけの筆者からは以上です。
(平成30年11月10日 土曜日)
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