おはようございます。
2018年3月の日本の医学部等制度に関する配信記事です。
なぜ、医学部と書かずに医学部等と濁して書いたのかと言いますと、日本の医師養成機関としては、◯◯大学医学部、ということで総合大学の医学部に収斂されてきているものの、未だ単科医科大学としての、◯◯医科大学という単科大学も複数残っているため(残っているという言い方も本当のところはよろしくないため)、等という言葉を付させていただくものです。
日本国といたしましては、獣医学部を50年ぶりに新設するということで、国会でもその設置の経緯が大激論となった2017年の記憶も新しいところでありますが、獣医ではなく人間の医療を行う医学部については、かの田中角栄内閣(第二次)の中で1973年に策定された「経済社会基本計画」の中に当時の医師不足を反映して、当時医学部がなかった15県に医学部を設置しようという意欲的な取り組みが行われ、一気に医学部の設置が進んだという背景があります。
日本も、やればできるのです。
黒船の歴史を紐解くまでもなく、危機に際しては一致団結、ことの解決にあたって一斉に動き出すというのは日本人の(良くも悪くも)特性であると思います。
なお、医学部を設置するといっても、その当時の国立の総合大学はいわゆる大学紛争の真っ最中であり、そこに医学部を新設してもまともな教育ができそうにないだろうという特段の配慮がなされました。
すなわち、医学部としての設置は当初、既存国立大学への医学部増設として当たり前に勧められたところ、当時の文部省(現在は文部科学省)がせっかく新設した大切な医学部の学生に、既存の総合大学の学生運動の影響が及ぶことを懸念したのです。
そこで、当時大学ごと新設しつつあった筑波大学と同様の新構想の大学として、単科大学での設置を進めたのです。
こうして、早速1973年に旭川医科大学、山形大学医学部、愛媛大学医学部、筑波大学医学専門学群、1974年に浜松医科大学、宮崎医科大学、滋賀医科大学、1975年に富山医科薬科大学、島根医科大学、1976年に高知医科大学、佐賀医科大学、大分医科大学、1978年に福井医科大学、山梨医科大学、香川医科大学、1979年に琉球大学医学部と、7年間で16校の国立医科大学(総合大学の医学部)が相次いで新設されました。
田中角栄が推し進めた、この一県一医大構想は、わずか発表より6年で実現されることとなったわけです。
政治の力、おそるべしです。
さすが、故郷新潟に新幹線(上越新幹線)を引いた総理大臣です。
やることがいちいちでかいです。
この結果、日本の医学部等の数は同時期に認可された私立大学を含め1979年末時点で80大学となり、入学定員は既存学部の入学定員増を含め8,000人を超える水準となったのです。
そして、琉球大学医学部の設置を最後に、ごく最近(2016年)まで医学部の新設は実に40年弱も沙汰止みになるのです。
その岩盤規制がようやく崩れたのは、東日本大震災を端緒とする災害医療と国際化に対応した医療および国家戦略特区制度による医学部誘致を合わせて行った2つの私立大学の医学部設置です。
2016年に被災地復興支援の特例として「東北医科薬科大学」(東北薬科大学から改称、仙台市)が認可されたのに続いて、2017年4月には国家戦略特区事業の枠組みで、国際医療福祉大学(本部・栃木県大田原市)の成田キャンパス(千葉県成田市)に医学部が新設されました。
また、別途、2004年の国立大学法人化等の改革によって、文部科学省はこれら新設の医科大学と地元国立大学との統合を推進し、浜松医科大学・滋賀医科大学以外の医科大学は同一県内の国立大学と統合し、統合された国立大学の医学部となりました。