おはようございます。
2018年1月の記事です。
筆者が個人的に座右の銘のように常に考え脇に置いているフレーズは、「自分のことは自分でする」です。
これは母親や祖母より小さい頃から言われてきたと記憶しているものであるので、自分の親もこのように子供を育てたと思われます。
しかしながら、人は成長して、いろいろなことを勉強して大人になり働いたりするに至って、どうも原因を自らの外に置くことで一時の安静を願うようになってしまうようであります。
世の中のせい、政治のせい、会社のせい、客のせい、他社のせい、果ては親のせいやら学校のせいやら、よくもまあ、せいせいせいせいキリがありません。
しかし残念ながら、全ての原因は、なになにのせいにしている自分のせいでありまして、そんな自分のせいにしたところで全ての視点が自分ではない他者にだけ向いていたのではないかと気づかされるわけです。
真に残念なのは、なになにのせいと言っている自分自身でして、それこそが一番始末に負えないのでありまして、それは、他者に目を向けて批判の目を向けているだけでは何も変わりはしないということであります。
この、世知辛い外に向かって拡散するだけの負の感情を、一度自らに向けて見ましょう。
そうすると、いかに自らがつまらないことで人のせいにしてきたのかがわかろうというものです。
センター試験で試験官が寝ていていびきをかいたから集中できないと3人あまりの苦情があったから試験官が処分された、というニュースがありましたが、50万人が受ける全ての試験会場で同じ条件を満たすことが一体可能なのか甚だ疑問です。
駆り出された臨時試験官の大学院教授も不幸です。
それよりも、隣で誰が寝てようが、イビキかこうが歯ぎしりしようが、貧乏ゆすりをしてようが、奇声を発しようが、それを気にするのは自分の問題と考えてどっしり構えて試験に没頭できる胆力を持った者の方が、よほど今後の人生充実して過ごせると思います。
人に意識を向ければ、その問題は決して解決できません。
自分に意識を向ければ、その問題は解決可能な課題となり、その課題解決の過程こそが人生の味であります。
人を変えることは不可能ですが、自分は一瞬で変えることができます。
その後の人生は完全に自分のものです。
かの最年少での野球殿堂入り(2018年1月現在)を果たした松井秀喜選手も、自分の力でどうにもできないこと(天気など)には極力こだわらない、自分のできることに集中する、というようなことを仰っていますが、これも、限られた人生の時間をどのように振り向けるか真剣に考えた結果出てくる至言だと思います。
ということで、自分に原因を向けるという意識を極限まで高めますと、今上天皇の前の前の前の天皇であった明治天皇は、
当時大逆事件を起こした社会主義者たちのことを見て、
「罪あらば吾をとがめよ天津神 民はわが身の生みし子なれば」
と、原因と責任が自らにあると詠まれました。
筆者も、少しはこれらを見習って、原因を自らに向けてまた今年も頑張っていこうと思いました。
しかしながら、一点だけブログ記事の閲覧PVが伸びないのはサーバーが貧弱だからであるせいに違いないと思っている筆者からは以上です。
(平成30年1月16日 火曜日)