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北方領土(赤地)、南樺太・千島列島(白地) |
おはようございます。
2014年9月のビルメン王(@shinya_ueda)提供の日本の北方領土に関するブログ配信記事です。
さて昨日の前史に続き、いよいよ北方領土問題が発生するまでの歴史的経緯、概要をおさらいしておきます。
そもそも、日本は北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立していました。
そして、19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。
この認識を条約という形で、日本とロシアが最初に対等な立場で締結した日魯通好条約(1855年:当時の帝政ロシアのことを、我が国では露ではなく魯と表記した)において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認したのです。
しかも加えて更に大きな樺太については両国民雑居として問題を先送りしています。
しかるに時代は下り、1945年8月、帝政ロシアの後継国であるソビエト社会主義共和国連邦は、日本との間の日ソ中立条約を一方的に無視、勝手に破棄して南樺太、千島列島から日本に侵攻してきました。
そうして日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏を受け入れた8月14日以降も軍事占拠を続け、遅くとも同年9月5日までに南樺太・千島列島のみならず、北方領土をも占領したのです。
ここで、太平洋戦争に日本が敗れたことと、旧ソビエト連邦がこうした行動を取ったこととは何の理論上の関連はありません。
ヤルタ会談で、米英を中心とする連合国からいくら旧ソビエトが参戦を催促されたとしても、ヤルタでどんな密約を結んだとしても、それは何の関係もないのです。
負けたんだから黙ってろ(しかも直接の交戦国でもない)というのは、論理的なアプローチではありません。
さらに書生的に厳密に申し上げますと、日本は戦後サンフランシスコ平和条約において、「南樺太と千島列島は日本の領土ではないと確認して主権を放棄する」と明言していますが、「ソビエト連邦の領土である」と認めたわけでもなく、またこの無主の地となった南樺太と千島列島の領土的帰属がどこになるのかという国際的な取り決めは現在に至るまで何らなされていないという状態なのです。
更にソビエト連邦はそもそもサンフランシスコ平和条約に署名していませんから、同条約上の権利もありません。
完全に「白」の状態なのです。
北方領土とは別の問題として、南樺太と千島列島の帰属についても本当は議論しなければならないのです。
これは評価の定まった歴史の話ではなく、今を生きる我々がこれから取り組んで解決しなければならない問題なのです。
これから刻む歴史に興味を持つ筆者からは以上です。
(平成26年9月25日 木曜日)
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