コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

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しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

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シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

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大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

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もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

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そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

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かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

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昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

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当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

(平成30年7月28日 土曜日)

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おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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おはようございます。

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そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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コミュニティとプロジェクトについての一考察を投稿するという話です

おはようございます。

2018年7月のコミュニティとプロジェクトについての一考察に関する配信記事です。

シェアハウスとかシェアオフィスとか、シェアサイクルとかカーシェアとか、いろいろと、シェアリングという考え方が多く出てきております。

そして、こうした取り組みでとりわけ注目、言及される概念に「コミュニティ」というものがありまして、とにかくなんでもつながるコミュニティという考え方が、最近ではもうお腹いっぱいというくらいプッシュ型で濫造されているような感じになってまいりました。

しかしながら、こうして世に提示されている「コミュニティ」という言葉の意味する具体的な出来事は、そのほとんどが、本来意味するであろう「コミュニティ」ではなくて、期限と期待成果が定められた「プロジェクト」に過ぎないのではないかと考えるのです。

プロジェクトの概念は、コミュニティに比べてより明確です。

プロジェクトには、その推進者と参画者、そして目標(ゴール)とそこに至るためのプロセス、予算といった経営資源の投下がなされることが常です。

しかしながら、コミュニティ、とはそのようなものを必要としません。

参画メンバーの心が安まるような場所であれば、それすなわちコミュニティ、ということになるのです。

まず一番小さなコミュニティ単位として、家族というものがあるでしょう。

そして、小さいものでは、行きつけの定食屋や床屋、よく行く飲み屋といった「場」もコミュニティになりうる素質ありです。

人は(少なくとも筆者は)、スーパーやディスカウントストアで買えばはるかに安いはずのウィスキーを飲む「だけ」に、行きつけのスナックに夜な夜な出て行くわけではないのです。

そこにいるであろうスタッフや他のお客さんとの他愛ない会話から世界経済に鋭く踏み込む感度の高い話やカラオケで気持ちよく歌うのを聞いてくれる人がいることまで、そういうことを期待して足が向くわけです。

そういう、一人一人が自由に振る舞える、継続してそこにある居場所のようなものを、コミュニティと呼ぶわけです。

かつての日本においては、「会社」というものが、かなりの部分コミュニティ化していました。

それは、明治維新の時代から、日本が近代国家となり大戦争を経験して経済的成長、復興を遂げて行く中で、村とか集落といった、血縁地縁で結ばれた持続的な居場所を捨てて、日本全国いや世界中を職を求めて放浪するようになった時代における、まさに擬似集落的な場所であったのです。

会社は大きな家族である、と実際に宣言して経営し成果をあげた、出光興産のような例もあります。

大家族主義を掲げて、従業員の定年もない、製油所のトラブルを従業員皆で徹夜で解決したのを見て会社が臨時ボーナスを支払おうとした時に、従業員一同がそれは本給に含まれる、そんな金が欲しくてやったわけではない、石油事業の継続のため、我々自身の誇りとプロ意識にかけておこなったものであるので余計な配慮は無用と言い放った逸話などがあるくらいです。

「村」「町」「地域」という血縁的かつ地縁的な場所を離れて、都会の東京砂漠に出て来た人々には、それを代替する「会社」という居場所が必要だったのです。

そうです。

昭和時代の会社は、とても家族的血縁的で、社会的に包摂される、いるだけで存在価値のある場所だったのです。

なにしろ、昼休みの会社の屋上で、バレーボールに興じたり、休日は全社の運動会もあったのです。

当然、時代は進み会社は株主のものであることが再認識され、合理的経済社会は、こうした擬似包摂社会の場としての「会社」を変容させました。

年功序列や終身雇用は時代遅れとなり、成果主義実力主義になり、契約や派遣という労働形態も増え、そもそも会社間の従業員の流動性も高まっていきました。

これこそ、会社組織がコミュニティからプロジェクトに移行したものであると言えるのです。

しかしながら、人間一人では生きていけません。

社会的孤立感に晒されます。

プロジェクトは、成果は出るのですが、どうしても心の満足を同時に得ることが難しい、吸い取り型の組織形態とも言えます。

実は、この平成末期の現代は、村も町も故郷も、擬似的コミュニティの会社も、そして家庭もプロジェクト化してきた、容易に孤立感に苛まれる厳しい時代になったのかもしれません。

もちろん非常に難しいことだと思いますが、人間が、心から所属して居心地良い空間や仲間を、どのようにシェアリングエコノミーが作り出して行くのか、これから注目していきたいと思っています。

いろいろ高尚なことを書いてみましたが、結局夜の飲み屋に出かけて行く理由と言い訳に過ぎないかもしれないと思う筆者からのコラムは以上です。

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