(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

(2019年11月5日 火曜日)

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(2018/04/15)ドイツと日本の大きな歴史の類似点についてざっくりとした見解を述べておきます

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(2019/11/05)西欧型国民国家というものが急速に相対化しているとは考えられないかという話です

シーランド公国

おはようございます。

2019年11月の歴史考察、国民国家というものに関する配信記事です。

最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われる空海弘法大師が突然身分の違いを乗り越えて国費留学で唐にわたったりすることができるのも、学者としての見識を見込まれ、他の貴族が驚き慄くほどの出世をひた走り、(藤原氏以外の)人臣として初めて右大臣の地位にまで上り詰めた吉備真備といった逸話を見るにつけても、日本という国は、もちろん完全な人権思想に基づいた平等思想が市民革命によって成し遂げた欧米的な完璧なる国民国家ではないかもしれませんが、こと人材登用に関しては、かなり融通の利く、そのような国であったのかもしれないと認識を改めるのです。

機会をうかがい努力を怠らない者には、それなりのチャンスが回ってくる、というのは、社会の活力を保つ上で非常に大切な要素だと思います。

そのような仕組みを保持してきた日本の社会構造において、そうした面を隠し去り、古い時代はいつも人民は搾取され続けてきた、権力者は自らの享楽のみを追求し、民から搾り取ることしか考えていなかった、と考えて、あまつさえそれを教壇に立って教えたりするのは、歴史を生きた先人たちを正しく理解する態度ではなく、むしろ失礼に当たるのではないかと考えるのです。

先の大戦においても、日本国が、どのように世界の中で振る舞おうとしたのか、何を目指して北は満洲、西はインド、東はハワイ、南はポートモレスビーまで長駆遠征し軍政を敷き、何を得ようと当時の一億人の日本人の死力を尽くして世界に訴えようとしたのか、思想的に何があったのか、もう少し冷静な歴史の検証を待った方が良いと思うのです。

ひょっとすると、今の西欧由来の国民国家像という考え方が急速に相対化する、そのような時代を生きているのではないか、アラブの王族や中国の国家主席、ロシアの大統領、そして西欧型国民国家の最右翼であるはずのアメリカ合衆国大統領などの話を聞いているとそう思わざるを得ないところがありそうですがいかがでしょうか。

本日は西欧型国民国家というものの相対化、というお題を勝手に立てて論じてみました。

日本国が世界に対して発信したり主張したりすることはこれからまだまだ出てきそうだと思い実は心強く感じております筆者からの歴史談議は以上です。

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最近、幕府とか将軍とか執権とかいった日本史上の存在に対しての筆者の理解といいますか、解釈を掲載したところ少なからず反響がありましたので、調子に乗りましてもう少しこのあたりを論じていきたいと思います。

日本において、統治機構の発展は古くて新しい独自の形態を取りました。

諸外国、なかんずく西洋近代社会におきましては、「王権」というものが中世社会より異常に伸長しまして、その上で絶対王政という、王様が神の権力、いわゆるキリスト教精神世界の守護者としても、世俗の権力の王としても、絶対的な権力をふるう、そのような時代がやってきますが、日本において、そのような「絶対権力」という存在はついに、2,000年以上の長きにわたって、現れなかったといえそうです。

現れそうにはなりましたが、弓削道鏡にしろ、足利義満にしろ、織田信長にしろ、絶対権力を目指す過程で必ず周りの人間たちがそれをなんらかの方法で止めに入る、その手段はご神託だろうが権謀だろうが暗殺だろうが、とにかく絶対権力を握らせないという日本国のありようについては驚きを禁じ得ません。

絶対権力を握ろうとした場合、後醍醐天皇の例を見るまでもなく、天皇ですら放逐されるというのが日本のスタンダードなのです。

そうして、その絶対権力体制という体制にアンチテーゼを起こし、市民平等と人権思想という全く新しい考え方を奉じて国王と王妃をギロチンにかけて市民革命を成し遂げてしまった西洋の、特にフランスを震源地といたします革命思想により、突然、為政者である王様が、共和制国家における大統領を選挙で「国民」が選んで、その国家のトップと人民とが一体となった「国民国家」とやらが、全治全能の人権思想を掲げて世界中を植民地にしながら荒らし回る、という不思議な全世界覇権主義の時代がやってまいります。

老大国の清朝などは、この欧米(人権諸国)列強に、いいようにやられてしまいまして、ほぼ国内は分割統治状態になるという有様ですが、日本は、世界的に特異な識字率と天皇・将軍という国家の成り立ちにこの欧米列強の人権思想と国民国家思想をうまくブレンドして、明治維新を成し遂げて「大日本帝国」なる欧米列強に呉する国家を作り上げたのです。

これをもって、欧米は東アジアの奇跡と呼び、あの孤立政策で有名だった世界中の支配者となりおおせたイギリス連合王国を持ってして、日英同盟という、南アフリカのボーア戦争で極東ロシアの南下対策まで手が回らなかったという大人の事情はあるにせよ、極東の日本と対等の軍事同盟を結び、ロンドン市場で日本の国債を発行して戦時調達の手助けをするなど、積極的に極東とそれ以外の世界の棲み分けを図ったというのは周知の事実です。

こうして、日露戦争が勃発、日本は満洲の荒野までロシア軍を後退させ、海では日本海海戦でロシアの極東艦隊に続いてバルチック艦隊も撃滅させ、なんとか勝利の体裁を保って講和に持ち込むことができました。

農奴制から近代市民革命を経ずして上からの近代化を成し遂げたロシアと、欧米とは別種の国民国家成立形態を経た大日本帝国と、双方死力を尽くした痛み分けであったわけですが、これを見るに、近代国家の成立過程において、(現代社会における通説である)善悪の判断は置いておいて、素直に歴史をたどると、日本の開国から明治維新、日露戦争勝利までの国家運営は、まさにチャンスを生かし切った、世界史上稀に見る急激な台頭であったことが見て取れます。

もちろん、これは戦国時代、そして(江戸)幕藩体制という中で、日本人が自ら学び、識字率も高く、身分の上下によって機会を奪われることを少なくしてきたという人材登用策の為せる技でありまして、遠くは織田信長の時代から、能力に応じた人材登用というのは行われておりまして、もっと時代を遡っても、例えば四国の若い僧侶で体力だけが自慢だったと思われ