(2019/11/03)鎌倉幕府の本質とは平将門が夢見た関東独立王国であったいう説を考察する素人の配信記事です
おはようございます。
2019年11月の歴史好きの筆者によります、鎌倉幕府の本質とは何であったかということを考察する素人配信記事です。
源氏という、武家の(東の)棟梁である征夷大将軍源頼朝が開いた鎌倉幕府があります。
その成立は、1192(いいくに)年と昔は覚えましたが2019年の今は1185(いいはこ)年と呼ばれているようです。
なぜかと申しますと、歴史をたどりますと、源氏は源氏の棟梁であります源頼朝は東国御家人の本拠地である鎌倉を動かず、実弟の源義経を総大将として平氏追討の軍を差し向け、ついに壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏を滅ぼします。
ここで、国内に源氏以上の武力を兼ね備えた権威がいなくなるので、そこで鎌倉「幕府」成立としてしまうのです。
同じく、同年、文治の勅許(1185年)というもので朝廷から正式に頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許認可権によりまして、名実ともに日本の支配者としての立場を確立します。
そして1190年(建久元年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権も得たことで、いわば、公卿公家に対しての守護者、統治機構としての合法性を帯びるようになりまして、最終的に、最後の仕上げと言いますか、1192年には征夷大将軍の宣下がなされたというわけです。
このように、日本史上初めての「武家政権」が成立したわけですが、まだまだ律令国家からの荘園制という旧来の公家貴族政治体制も多分に残っておりまして、各国の守護の設置という、諸国の治安維持を確かに鎌倉幕府は担当したものの、その支配は領域的にも実質東国、機能的にも限定的であったわけです。
最初から、「江戸幕府並」の強力な幕藩体制をイメージしてはならないのです。
それから、次第に範囲を拡大し、承久の乱や元寇を経て、北条得宗家の専制支配が全国的な支配権を確立するに至ったというのが正しい解釈です。
ということで、当時から武家政権を「幕府」などという近世的な言い方で呼んでいたわけではありませんで、朝廷・公家からすれば、東国、関東などと(一段低く)呼び、武士からは鎌倉殿、一般の人からは武家と称されていたようです。
鎌倉幕府の「吾妻鏡」に征夷大将軍の館それ自体を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所や居館を指す概念でありまして、実は武家政権を幕府と称したのは、その後ずっと後の江戸時代後半、幕末という言葉が生まれた頃からのことであり、ここでも、「現代の常識で過去の歴史を見てしまう」といういつも筆者が気をつけておきたいと願う歴史を振り返る時の不具合というか悪しき伝統というかそういったものに侵されてしまった嫌いを感じるのです。
すなわち、鎌倉幕府、と便宜上現代の我々が呼んでいるものの実態は、江戸幕府という、幕府保守本流の葵の御紋のあの徳川幕府を知っている我々が幕府という言葉に引きずられてイメージしてしまうあの幕府的なものではなくて、もっと、実態としては、かの平将門が関東を制圧して短いながらも独立政権として新皇と称した、あの平将門の乱で登場した政体が、一応の朝廷の「認可」を得て永続性を許された(少なくとも征討される類の存在、朝的ではない)程度のものであるという認識を持った方が近いのかもしれません。
そういう意味ですから、鎌倉幕府というのは、「源氏」の政権なのではなく、実態は、そうですね、あの近畿地方に6世紀ころから成立し始めたところの「大和王権」に近い、要するに「関東に土着した武士団たちの地方独立政権」という性格の方が近いわけです。
そして、清和源氏の大将であったところの源頼朝は、この鎌倉幕府のオーナー経営者ではなくて、あくまで、「血筋が良かったための」雇われ経営者の立場に過ぎないというわけなのです。
もちろん源頼朝も、関東で一旗あげたいという野望はあったでしょうが、より現実的には、「京都の都の公家どもや朝廷に、これ以上搾取され、支配され、蔑ろにされるのはまっぴら御免」と立ち上がった関東武士団の挙兵に、うまいこと担がれた、という神輿の上の大将であったというところを忘れてはいけません。
清和源氏の大将ですから、元は京都育ちのおぼっちゃまで、京都の貴族たちに対してもある程度対等にものが言える、少なくとも意味が通じる言語でコミュニケーションが取れる、顔が利く奴ということで見込まれたに過ぎません。
この点、平清盛は京都で一族の栄華を極めてしまったので、この「有力御家人連合」のパワーに勝てなかったというわけです。
清和源氏を旗印に、集ったのは、北条氏、足利氏、安達氏、比企氏、和田氏、といった関東の有力豪族団でした。
そして、筆頭となり「執権」という将軍の代理という便利な地位を「開発」し、得宗家として鎌倉幕府を牛耳ることになるのが北条家であり、そしてその北条家はれっきとした桓武平氏であり、要するに平将門が思い描いた関東独立国、を同じ平氏の一門が後の世に現出させたということでもあるのです。
源氏は三代で滅び、そうしてもっと便利な京都の公家の将軍、さらには皇族将軍と、得宗家である執権北条氏は、鎌倉幕府という関東の王の権威を高め、関東武士団の利益代表として君臨しました。
そうして、元寇の時にも、遠く西国の九州まで、関東武士団を「派遣」して、その勢力伸長に余念がありませんでした。
西国の土着の豪族たちは、名門でありながらこうした関東の「田舎武士ども」にいいように扱われ、元寇の際にも先鋒や殿(しんがり)といった損で犠牲の多い役回りに回され、さらに勢力を削がれることになります。
あの南九州、薩摩の覇者である島津家ですら、元は関東武士団というのですから、驚きです。
鎌倉御家人であった島津家の家祖・島津忠久が鎌倉殿である源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられたというのが、2019年現在まで続く島津家の家系であり、この長さは相当長いです。
そんな関東御家人の利益代表として君臨した源頼朝は、その関東武士団の守護者という立場を堅持し振る舞いました。
京都に帰って平家のように栄華を極めるのではなく、田舎の鎌倉にとどまって、関東の王国を発展させる仕事に邁進したのです。
しかしながら、あくまで関東武士団の棟梁としての存在でしかありません将軍職は、東国武士団の合議制の中から傑出した北条得宗家によって牛耳られ、将軍家ですら都合が悪くなると消されるという塩梅になりました。
というわけで、初代の源頼朝からして、京都の官位への希望や期待を覗かせたその瞬間、関東武士団は、そんな「関東の王」の自覚を忘れた頼朝を、そのタイミングで、落馬死事件として闇に葬ります。
で、関東の御家人全員が「落馬です、事故死です、残念です、悲しいです」と口を揃えて言ってます。
これはもう、北条だけの単独犯ではありません。
もし、そうであるなら、頼朝に忠誠を誓っているはずの他の御家人が黙っていないはずです。
でも、誰も「暗殺だ」などとは騒ぎません。
これが、恐ろしいところです。
要するに、東国御家人衆、鎌倉御家人全員が「グル」になって源頼朝以下三代の源氏の将軍を暗殺したか、暗殺に加担したか、見て見ぬふりをしていたかとしか言いようがないのです。
要するに、俺たち関東御家人の独立国家関東政権を守るために、都合の悪いトップは暗殺してすげ替える、という意思です。
鎌倉幕府は、このように、将軍職からしてその性格からして、江戸幕府といった固まった存在というより、平将門の時に目指した関東独立王国のような体裁であったという理解のほうがより正しい歴史の理解であろうという結論です。
こちらからは以上です。
(2019年11月4日 月曜日)
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