(2019/11/03)本能寺の変後の予定調和の動きを丁寧に追い天下の謀反人明智光秀の名誉を回復したいと願う記事です
おはようございます。
歴史上有名ながらも、その背景や原因がさっぱりわからないことで有名な「本能寺の変」についての配信記事です。
本能寺の変とは、旧暦天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣である明智光秀が謀反を起こして襲撃し討ち果たした、とされる事件です。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てたということです。
そして、信長の嫡男で織田家当主を与えられていた信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦いましたが、やはり館に火を放って自刃したということです。
創業者と現在の太守の2名を連続して失うという、織田家2人の非業の死によって安土城政権は崩壊し、一瞬、天下人となった明智光秀でしたが、「中国大返し」で畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か11日後に光秀もまた同様の運命を辿ります。
ここで、一首の歌をご紹介します。
心知らぬ人は何とも言わば謂(い)え
身をも惜しまじ名をも惜しまじ
(江戸時代以降、読み人知らず)
この歌が、果たして明智光秀自身が詠んだのかどうかはわかりません。
しかしながら、後の世の人々が、この裏切り者の汚名を一身に着せられた明智光秀の本心を推し量るための縁(よすが)として、この歌と語り継ぎ、書物に記して本当のことを忘れないように受け継いできたのは間違いありません。
この時点で、稀代の前衛改革者であった織田信長によって、その身を滅ぼされようとしていた「反・信長連合」の勢力や人々は、一様に安堵し、そうしてモデレートした後継者に収まった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に擦り寄り、そうして口を拭って保身に走った、といえば言い過ぎでしょうか。
信長の跡を継ぎ天下人となった秀吉は、本能寺の変の明くる年、大坂本願寺の真上に、安土城を上回る巨大な大坂城を建設します。
この秀吉の政権には、かつての信長の敵が次々に参加しました。
毛利、上杉、長宗我部などをはじめとした戦国大名に続き、終生信長に対立し続けた、あの室町将軍足利義昭すら、1万石を与えられ、秀吉のそばに侍(はべ)ることになりました。
続いて天正15年、秀吉は京の都の聚楽第に移り住みます。
そうして、朝廷や公家とも密接な関係を築き、政治をおこなっていくことになります。
秀吉が権力を確立していく過程で、光秀は謀反人の汚名を一身に背負わされました。
諸大名も公家衆も、本能寺の変に加担した可能性もあり、加担していなくても心の奥底で信長の死を願った人々はみな口を拭(ぬぐ)い、秀吉の政権に参画することで、その身の安全をはかりつつ、本当の事実に繋がる証拠を隠滅した、そうとも考えられるのです。
こうして、本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、時代の大きな転換点となったのは明らかであるにもかかわらず、信長を討った光秀がその動機を明らかにした史料はなく(残っているはずがない)、また光秀の重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機が明らかにされることはありませんでした。
要するに、後の世の「本当のことがバレると困る」秀吉およびそのまわりの人々によって、事実が改竄され証拠は隠滅されたという推定が働きます。
もちろん、更に光秀がおくった手紙等も後難を恐れてほとんど隠蔽されてしまったため、本能寺の変の動機を示す資料は極めて限定されているのです。
こうしたことから、この「事件」は、日本中世史研究においてはあまり重視されたテーマではなく、日本中世史を専門とする大学教授などの専門家が本能寺の変を主題とした単著は極めて少ないという状況です。
本能寺の変の歴史的意義としては信長が死んだことと秀吉が台頭したことであり、光秀の動機が何であれ、黒幕がいたとしても後世の歴史に何の影響も与えておらず、光秀の動機や黒幕を探る議論は正当な史学学会からは、要するに俗説でありキワモノであり、立証は不可能という低評価の有様です。
しかしながら、本当の歴史とは、史学学者や文献の保持者のみに許されたものではなく、より多くの個人の推理や憶測といった想像を働かせることが非常に大切であるということは間違いなく、この歴史の空白に思いを致すことは、別段日本中世史研究家ではない筆者のようなまるで「素人」でもまったく参入しやすいということでもあります。
好きに解釈して良いし、その自説をどのように自らの発表の場で披歴しても良いわけです。
信長と秀吉の時代を、その権力中枢があった場所、「安土桃山時代」というセンスのないネーミングでまとめてしまうような、そのような史学学会に対しては、素人ながら、もっと違う言い方や伝え方があるだろうと思うのです。
もう一度、素人考察ですが一番言いたいことを書いておきます。
信長によってその存在、生存自体が脅かされていた、諸大名も朝廷公家衆も宗教勢力に至っても、こぞって本能寺の変に加担した可能性があり、加担していなくても心の奥底で信長の死を願っていた人々、彼らは皆本能寺の変が実際に起こった後は、みな口を拭(ぬぐ)い、秀吉の政権に擦り寄り参画することで、その身の安全をはかりつつ、本当の事実に繋がる証拠を積極的に隠滅し、自らの本心を糊塗して光秀を貶めることで心の平静を保って生き延びた、このように考えられるのです。
こうした「変節」を経て一時は隆盛と栄華を極めた「歪んだ後継者」である秀吉政権でしたが、おそらく光秀の立場と気持ちに一番近かったであろう、徳川家康の粘りによってこれもまた、滅ぼされるということになります。
徳川三代将軍、生まれながらの将軍の名前は「徳川家光」。
徳川家康の「家」と、光秀の「光」の文字を使ったのは間違いない、と筆者は「信じて」いるのです。
明智光秀という稀代の大家臣に学ぶべきことは、オーナーやトップや社長や会長に仕える、全てのサラリーマンや部下にとっては特に、これからも多いと思っています。
こちらからは以上です。
(2019年11月3日 日曜日)
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