昭和末期と平成末期の今との働き方の変遷と変わらないものを自分なりに整理してみたという話です
おはようございます。
2018年8月の人材教育と働き方に関するビルメン王によりますブログ配信記事です。
時代は平成の末期となっておりまして、昭和生まれの我々筆者の世代が社会人になりたての頃に受けた「教育」ははるか昔となりました。
新人としてまずセッティングされたのは、花見のセッティングであり、配属された部署での一人一人の係員の先輩のみなさんとのサシ飲み会であり、最後は中ボスの課長、そして大ボスの部長とのサシ飲み(すべて奢り)が延々一ヶ月以上続き、この新人はどういうやつであるか、ということを頭の先から足の爪の先まで把握されたものでした。
そして、朝の早朝出勤です。
東京の丸の内のど真ん中に、今は物理的にも法人的にも消滅してしまった銀行の本館に新卒筆者の職場はありまして、地下鉄を3駅ほど乗り継いで帰れる至近の独身寮から、朝7時には出勤して、とりあえず何やっていいかわからないけれども新聞を読んだり、ありとあらゆる顧客ファイルを読み漁るところから1日は始まりました。
おそらく家を買ったばかりで片道一時間以上かかる埼玉の奥地や千葉の海沿い、湘南や鎌倉から、管理職や課長代理の先輩方もやってきていたのですが、彼らも7時15分には出社完了していました。
この人たちは一体何時に起きているのだろうか、衝撃を覚えたものです。
しかしながら、いちビジネスマンとして知力と体力と行動力のみを労働力として提供し、付加価値を出す、という気概は凄まじいものがありました。
労働環境は過酷で常時深夜労働、そして休日も通用口の警備門で「忘れ物」という理由での入館許可で入館している人がずらり、そんな職場が日本全国津々浦々、けっこう普通に繰り広げられていたのです。
むしろ、休日だと自家用車でくることができて早く来れる、ということで、入館理由「忘れ物」の入館簿の一番上の時刻が、午前5時台であることもあり、若い身ながら苦笑したことを覚えています。
しかし、時代は変わりました。
根性論は影を潜めました。
ですが、ビジネスにしろスポーツにしろ、本番の修羅場を経験しないことには真の成長は見込めません。
昭和のビジネスマンたちは、日々の自己研鑽と情報獲得競争において、それはヒリヒリするような本番の修羅場を日々経験していました。
たった一つの、重要な顧客ニーズという情報や重要な当局や世界情勢といった情報を得るために、さまざまな手段で動き回っていたのです。
今の時代、そのような物理的な「押さえつけ」や「長時間労働」を推奨することはできません。
しかしながら、時間を区切っても、その時間を濃いものにすることはできるはずです。
濃いものにするということは、準備や作業の時間を適切に取りつつ、節目節目でビジネスの最前線の修羅場に投入する、そしてできればとっとと失敗させるという経験を積ませる(大して練られていないから失敗するのは当たり前)、これしかないのではないかと最近とみに思うようになりました。
昔は怖い先輩や上司がいて、ちょっとしたミスや誤字や脱字も許されませんでした。
顧客に示すプレゼン資料のホチキス(ステープラー)の押し直しですら、それは激しく厳しく叱責されたものです。
しかし、魂は小さいところに宿る、というのは時代を超えて不変の価値だと思います。
上司が怒るのではなく、本当にそのような本番の席で、生煮えのプレゼン資料、自分も説明できない商品サービスの説明をしてしまって顧客の質問にほとんど答えられなかった、そんな恥ずかしい、失敗経験を踏んで、自分で気づいて自ら律していかなければなりません。
人に怒られる前に、いつも見ている自分自身を評価者とするのです。
こうした心構えを持って欲しいということをいつも伝え続けるのが、現代のビジネスパーソンにおける「教育」ではないかと思っています。
たまには真面目なことを書いたように見えますが、本当は上司管理職として楽をしたいだけの筆者からは以上です。
(平成30年8月2日 木曜日)
▷▷次のページは